7月15日、長崎県佐世保市の大型リゾート施設・ハウステンボスの親会社である野村プリンシパル・ファイナンス(株)(野村PF)が、ハウステンボス協力会(会長=河部浩幸・九電工会長)メンバーの九州電力やJR九州などに追加支援を要請していると西日本新聞が一面で報道した。しかしその後の報道で、河部会頭が地場経済界の出資などによる経営参画は難しいとの考えを示したとされている。ハウステンボスの歴史をたどりながら、なぜ今回のような事態となったのか、今後の動向はどうなるのかを検証していきたい。
代表者:東園 基宏
所在地:長崎県佐世保市ハウステンボス町1-1
設 立:1991年10月
資本金:125億25万円
年 商:(09/3)154億円
<先見性高かった神近氏>
ハウステンボスは、1992年3月に開業された滞在型リゾートのテーマパーク。長崎オランダ村(長崎県西彼町、現・長崎県西海市)の代表だった神近義邦氏が、佐世保市の工業団地用地を買収。大村湾に面した開発総面積152haという広大な敷地に、全長6㎞の運河およびレストラン、ミュージアム、アミューズメント施設、最大収容数2,200名を誇るホテル施設などを有する「環境未来都市」として開業した。
開業当時はバブル崩壊直後の時期で、全国各地のリゾートやテーマパークの計画が頓挫するなかでの船出となった。しかし、開業4年目に当たる96年には、年間入場者数が400万人を突破。97年3月期の売上高は約496億円、入場者数も約413万人を動員し、九州最大のテーマパークとなった。
神近氏は非常に先駆的な発想の持ち主だった。そもそも、ハウステンボスは単なる集客装置としてのテーマパークを目指してはいなかった。「海に抱かれた自然豊かな故郷に、子どもたちの元気な声が響く街をつくりたい」という想いがあったようだ。しかも、単なるオランダの街並みの模倣ではなく、今では多くの企業が取り組んでいる「エコ」を念頭に置いた街づくりを当時から目指していた。
建設予定地は高度経済成長期に長崎県が整備した工業団地だったが、第一次オイルショックの影響から進出企業がなく、土地は荒れ果て、不毛の地となっていた。
そこで神近氏は、「エコロジーとエコノミーの共存」をハウステンボスの企業理念とした。『ハウステンボス・プロジェクト』として、植樹や運河開通によって自然の生態系を蘇らせることからスタートさせ、独自の下水処理システムやゴミのリサイクル施設を建設。さらには、地下共同溝によるインフ ラの地中化など、積極的な設備投資を行なった。
また神近氏は、ハウステンボスの立地エリアでは、せいぜい数百万人の周辺人口しかいなかったが、年間400万人もの人々がローカルな場所に訪れるようなったのは質の高い情報を数多く発信し続けたから、としている。実際に、当時まだ普及し始めたばかりのインターネットによって、世界に向けた情報発信を開始するなど、先見性の高い施策を打っている。
【大根田康介・烏丸 哲人】
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