総選挙の前哨戦とされる東京都議会議員選挙が始まった。東京は日本の首都であるが、一地方選挙にすぎない都議選への注目度は過剰とも思える。実は、騒いでいるのは大手マスコミだけで、地方の人間は候補者の名前も顔も知らない。そんな選挙による投・開票後の議席数が、日本国総理大臣の首を飛ばすかもしれないという話にはどうしても合点がいかない。もうひとつ、強い疑問を抱かせるのが、東国原宮崎県知事と橋下大阪府知事の露出の多さである。この報道の有り様には首をかしげたくなる。
東国原知事については、「総裁候補」という条件付きながら自民党からの衆院選出馬の行方が、橋下知事は首長連合結成が注目を集めている。合言葉は「地方分権」だ。
朝から晩まで、ニュースはもちろんワイドショーまで2人の動きを追い続ける。都議選より両知事の言動の方が画になるのだろうが、間違えてはならないのは「地方分権」だけが総選挙のテーマではないということだ。
我が国には外交、内政にさまざまな問題が山積している。しかし、将来への不安を解消して国民に安心・安全を約束する手順については、どの政党も確固たるものを提示できていない。総選挙は、一人ひとりの有権者が、政策を検討し、総合的に考えたうえで投票先を決めるべきで、ひとつの争点だけで結果を求めるものであってはならない。テレビの視聴率かせぎのために、国政選挙の在り方を狂わせてはならないのである。
2005年の総選挙は、マスコミも有権者も、郵政民営化の是非を問うとした小泉元首相の戦術にはまった。自民党が大勝し、ついでに税金のムダ使いにしかならない無能な議員を数多く生み出してしまった。郵政民営化の成否も検証が必要だが、お祭り騒ぎの挙げ句、仕事もできない政治家を生み出したことへの反省を忘れてはなるまい。もちろん、自民党の勝ち過ぎが、その後の日本に地域間格差などの弊害を招来したこともである。
東国原知事と橋下知事、ともに芸能界での経験を生かし、情報発信能力に長けている。それぞれの地域で、一定の成果をあげていることも評価できる。しかし、東国原知事については、宮崎名産のマンゴーや地鶏を全国的なブランドにしたトップセールスマンとしての顔しか見えてこない。知事が毎日のようにテレビ出演を続けてきたことで宮崎の知名度は上がった。しかし、宮崎県の改革がどこまで進んだのか、政治家としての手腕がどれほどのものか、全国の有権者には判断のしようがない。タレント出身だけに、歯切れよく永田町や霞ヶ関を批判するが、具体的に自らの政治信条や政策を語る場面は少ない。「どげんかせんといかん」は、現状に不満を抱く有権者の心情と合致してはいるが、大衆迎合では国の未来を切り拓くことはできない。橋下知事の提唱する首長連合による政党支持の表明にも、賛成できない。無所属の立場で当選してきた首長らが、特定政党の支持を打ち出すことには有権者も納得がいかないのではないだろうか。
地方分権は権力者が与えるものではなく、地方の力を合わせて勝ち取るべきものである。そのためには、地方自治体が力をつけ、住民参加を促進させるなどの大きな改革が必要だ。地方主権の実現には、それなりの準備と意識改革が必要であり、政党や総理大臣の力だけで成就できるものでもない。もちろん、地方分権は大多数の国民の目標であり、野望実現のための道具にするようなことがあってはならないはずだ。4年ぶりにめぐってきた政権選択のチャンス。タレント知事の動向より、各政党のマニフェストの内容こそ重要なのである。
【頭山 隆】
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