<すでに半世紀前から人口減が進んでいた鹿児島県>
前回、岩崎産業の3代目である岩崎芳太郎社長が「地方を殺すのは誰か」との著書を出版したことは紹介した。東京や福岡の都市部に住んでいると実感がわかないが、本の人口が、激変の方向にあることに気付かないのである。九州一の人口を誇る福岡市においても、年間の実質人口の増加が1万人を維持するのが精一杯の状態になっている。となれば、鹿児島県における人口減の傾向は、顕著になっているはずだ。
1966年、筆者は鹿児島にいた。当時、出身の宮崎県の人口は110万人であったのに対し、鹿児島県の人口は186万人ではなかっただろうか。家庭教師をしていた関係から、その数字をおぼろげに記憶している。だから実感として、鹿児島県は「宮崎県の2倍規模の巨人」という印象が残っているのだ。ところが、鹿児島県の人口のピークは統計上、55年の204万4,112人であった。だから11年後には18万人の人口が減少した勘定になる。まさしく最近の日本の人口減の傾向は、鹿児島県においては半世紀も前から具現化していたのだ。
鹿児島県の人たちは、優秀で粘り強く努力をする。東京や福岡、そのほか全国津々浦々の各戦線において奮闘し、基盤を形成した。各地区でも、鹿児島県人会の活動も活発である。人口減とは表現を換えると、『人材流出』ということになる。鹿児島県の人口流出は、県勢において致命的な打撃を与えた。09年6月1日段階での鹿児島県の人口は171万1,433人である。55年と比較すれば、33万2,779人の減少で、15%以上の激減なのである。
問題なのは、他地域が鹿児島県と同じ道を辿ったわけではないことだ。宮崎県の人口のピークは96年で117万7,407人である。10年前までは人口の漸増を辿っていたのだ。66年時には、2県の人口の差は76万人であったのが、08年比では57万人程度に縮まった(宮崎県の08年の人口は113万6,288人)。この格差程度では、宮崎県の2倍の巨人鹿児島県のイメージが崩れてしまっても当然である。
<限界集落の異常事態は、自民党に責任がある>
鹿児島県大隅半島を歩いてみれば、驚愕の事実に遭遇する。あと10年もすれば、各地区の集落・町内自治が崩壊することに気付くであろう。住民の平均年齢が70歳にならんとするところも珍しくない。いかに元気なご老人の存在があるとしても、誰もが百歳まで生きるわけでもあるまい。10年もすれば、大半のご老人たちは寿命を迎えてしまうことになるだろう。高齢者の割合が増えて、地域コミュニティーの機能が成立しなくなった地域のことを『限界集落』(正確には、65歳以上の高齢者が総人口の半数を占める集落)と呼ぶが、この悲惨な状況は大隅半島ばかりでなく鹿児島県全体に及んでいる。住んでいる誰もが、「この先、どうなるのか?」と生活感覚で危機感を抱く。「こんな最悪な事態にした責任は誰か?」と自問自答する。答えは明白だ。「自民党に責任がある」となる。加えること、小泉政権が地方の疲弊を決定的にさせた。地方の居住者は、生活レベルで憎しみを抱いた。この憎しみは怨念になっている。鹿児島県を例に述べてきたが、全国の地方の多くは同様の状況だ。自民党という組織は、「制度疲労を招いた」という程度のものではない。『寿命を絶った組織』といえる。
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