きょうは総選挙の公示である。衆議院解散から約1か月。すっかり選挙という言葉に慣れてしまった日本列島。民主か自民か、風はどちらへ吹くのだろう。お盆の小休止をはさんで、週明けから本番、と意気込むのは立候補予定者とその周辺、そしてメディアくらい。一票の権利を持つ有権者はすっかり落ち着きを取り戻している。
お盆で帰省した同世代の社会人1・2年生などに聞くと、若者の政治離れの実態を垣間見ることができる。選挙や政治という言葉に一種の拒否反応を示す様子は、学生時代と何も変わらないのだ。社会人となった新しい土地に思い入れがないから、というだけではない。今回の選挙について聞いても「どうせどっちになっても変わらない」「誰がやっても約束を守らない」という答えばかりだ。どうやら「政権選択」という意識もないらしい。ほんの一部の若者の声ではあるが、意外と多くの国民の心の中を言い当てているのかもしれない。
若い世代から見ると、解散、公示前の運動、公示、選挙運動という一連の動きは、ある意味で儀式だ。公示日のきょうは、必勝祈願のため三社参り(中には五社参りもあるという)や神事を行う陣営が少なくないという。正直「?」である。儀式を否定しているのではない。平気で公約を破る政治家の姿と「儀式」が、あまりにもかけ離れているのだ。
政治離れの責任は若者だけにあるのではない。信頼に応えてこなかった政治家の姿を、うんざりするほど見せつけられてきた結果が現在の状況を生んだのではないか。約束を守るのは、人間として当然のことだ。それができないからこそ政治に対する期待が持てない。「儀式」の価値は失われるばかりだ。どうか、選挙をただの「儀式」にするのではなく、有権者と「約束」するための場にしてほしい。
【新人記者】
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