圧倒的努力は、いつか必ず実を結ぶ。
―幻冬舎を立ち上げられたとき、これから仕事をしたいと思う方々にひたすら手紙を書き続けたというのも有名なエピソードです。
見城 会社を登記したのが16年前の11月12日で、オフィスとなる雑居ビルに入ったのが同年の12月頭ですよ。まだ机と電話しかない、四谷の雑居ビル。僕は代々木に住んでいるんだけど、倹約もしたかったし、代々木の自宅から四谷の雑居ビルまで毎日歩いていった。そして朝10時から夜の12時まで、コンビニの弁当を食べるだけで、トイレに行くことと水を飲むこと以外、ずーっと手紙を書き続けた。12月27日ぐらいから1月7日ぐらいまで。誰も来ないし、ひとりっきりになれるからね。そこで、これからどうしても仕事をしたい人たちの、古い作品も直近の作品も読み、「こいつと仕事をしたい」と思わせるような、相手にとって発見のある、刺激になる手紙を書き続けたわけ。相手がミュージシャンなら、全部のアルバムを聴き、最近のアルバムはとくに聴き、ちゃんと刺激のある手紙を書いていく。1日だいたい5人の表現者に書いたよ。
そういうことを圧倒的努力と言うんだと僕は思うんだけど、それはものすごく大変な作業だよ。僕もよく手紙やメールをもらうけど、書いてあるのは自分のことばかり。「僕は昨日までスイスにいました」とか「僕は今、○○に凝っています」とかね。そんなことを書いてもしょうがないんだ。相手にとって刺激になる、新しい発見になる手紙を書かなきゃ。じゃないとただのストーカーになっちゃうし、相手にとっても面倒なだけ。「この人とならば、もっといい仕事ができるかもしれない、もっとステージが上がるかもしれない」と思わせる手紙を書かなきゃいけないから大変ですよ。
たとえば僕が角川書店の新入社員時代、五木寛之さんに対して、とにかく出るもの、発表されるものにすべて手紙を書きました。当時の五木さんは「角川に書かない」という作家さんのひとりで、一番の難攻不落の作家だったからね。それに僕は当時、先輩や同僚や上司がやれていることや、角川の看板でできる仕事をしたって何の意味もない、そういう仕事は一切しないと思っていたから。17通目で返事が来ました。奥様の代筆でしたが、「よく読んでいただいてありがとう」、と。25通目で会うことになり、そこから先はスムーズでした。25通の、血が滲むような努力があるからね。すぐ連載が始まり、そこから五木さんとの関係がスタートして、会社を創るときに「幻冬舎」という名前も付けてもらった。270万部という、幻冬舎では一番売れている『大河の一滴』という本を書いてもらうこともできた。
圧倒的努力というのは、すぐにではなくても、必ずいつか実を結ぶと僕は思っているんだ。16年前の12月27日からの10日間、毎日5人ぐらいにそういう手紙を書いたことも、すぐに実を結んだものもあれば、7年後、10年後に実を結んだものもあるけれど、いつかすべて実を結ぶわけです。すぐじゃなくてもいい、圧倒的努力をしたことは必ず実を結ぶ、と思ってやるしかない。圧倒的努力をすれば、「無理だ、不可能だ、無謀だ」って人が思うことも覆せるわけですよ。
新書を最後発で出したときもそうです。今、うちの新書はすごく上手くいっているんだけど、「最後発で上手くいくわけがない」と誰もがそう思った。だけど新書を作った。創立4年目に出した、郷ひろみの『ダディ』の初版50万部もそうだった。
―ハードカバーとしては強烈なインパクトの数字ですよね。
見城 前代未聞の数字だよ。これも「無理だ、無謀だ」と言われた。誰もが考えもしなかった国民的カップルの離婚を、単行本がスクープする。しかも離婚届を出すその日に出版する。その上に50万部という前代未聞の初版のインパクトがあれば、これは100万部売れる、と。現に5日間で100万部売れましたよ。
それから天童荒太の『永遠の仔』をゲラで読んだときに、僕は本当に感動して、涙が溢れて、胸の震えが止まらなかった。これはどんなことがあっても売ってやろう、と思ったんだ。上・下巻それぞれ1万5,000部の、初版3万部だったよ。でも、合わせて30万部売れなければ全く採算がとれない広告を打ったし、プロモーションも徹底的にやった。ドラマ化もゲラの段階から動き始めていた。それも「無理だ、無謀だ」の世界ですよ。
【取材・文・構成:烏丸 哲人】
見城 徹 (けんじょう・とおる) 氏
1950年12月29日、静岡県清水市(現・静岡市清水区)生まれ。慶應義塾大学法学部を卒業後、75年に株式会社角川書店入社。『野性時代』副編集長を経て、85年に『月刊カドカワ』編集長。直木賞作品5本を含め、数多くのベストセラー作品を送り出す。93年、同社取締役編集部長を最後に退社。同年11月13日、株式会社幻冬舎を設立。『弟』(石原慎太郎)、『大河の一滴』(五木寛之)、『ダディ』(郷ひろみ)などのミリオンセラー作品を自ら担当編集者として手がけ、経営者でありながら、今なお編集・宣伝・営業の第一線に立つ。とくにその斬新な広告やプロモーションは、業界の常識を変えたと評される。一方、映画やテレビドラマの企画・プロデューサーとしても活躍、その動向は各界の注目を浴びている。