7月下旬の楠田大蔵本部事務所。ドラッグストアほど広いフロアの壁一面に貼り出された為書き(ためがき=民主党幹部や近しい政治家たちによる「為楠田大蔵・祈必勝」などと書かれた大きなポスター)や推薦状とは裏腹に、人はまばらだった。
秘書4名を合わせても、10名になるかならないか程度。那珂川町から朝倉市までの広い範囲を完全にカバーするには絶望的な人数。それが楠田陣営の精一杯の総力だった。
その頃は、秘書が旧来の支援者宅を一カ所一カ所しらみつぶしに回り、集会や街頭演説への参加を呼びかけたり、ボランティアスタッフが支援者に電話でイベントの案内をしたり、選挙の応援に来ていた県議会議員はそれぞれ自分の支援者に楠田氏の支援を呼びかけたりしていた。
国政選挙というにはあまりにも貧相な活動だった。
「自主的に来ていただいている方ですから、上から命令を下すというのが難しかった」
選対本部長を務めた原竹岩海県議は語る。秘書たちは、連日行なわれる会議の決定に沿って動いていたのだが、それ以外のボランティアで参加しているスタッフたちは、いきなりふってくる命令を受けて動く以外にはやることもなく、呆然としていたり、事務所の資料を片付けたり、掃除をしたりとまとまりなく動いていた。
あるときはA秘書から、またあるときはB秘書から、突然業務を伝えられ、そして各秘書はどのスタッフが誰の命令で何をやっているのかを把握していない状況。とても組織と呼べるものではない。それが楠田事務所のあり様だったのだ。
そんななか、事務所内の統括マネージャー的な支援者が応援に駆けつけた。彼は、企業経営者として磨いた手腕を事務所内でも発揮し始める。自身がボランティアであるため、立場としてはスタッフと同列。それがゆえ、楠田代議士および秘書たちと、スタッフの間のパイプ役となり、さらには事務所全体の取り仕切りを担った。
ようやく指揮命令系統らしきものが形成され始めたとき、カレンダーは8月に入ったことを告げていた。
【柳 茂嘉】
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