二度の「神風」吹くも
こうして、事業規模が急速に縮小していった同社は、運転資金をまかなうため、メインバンクであった九州銀行に融資を依頼した。しかし、バブル崩壊後で業績が悪化していたこともあり、思うような融資が受けられず、他行からも断られていたという。結果、利率の高い借入や手数料の高い手形割引を利用せざるを得なくなり、経営が圧迫されていった。
しかし95年12月、同社に「神風」が吹いた。丸栄硝子が取得していた福岡市東区原田の旧工場跡地が福岡市に収用されるかたちで、約3億円で売却できたのだ。もともとこの土地は、丸栄硝子名義で約1,400平方メートルの土地を取得して工場を建設していた。
だが、同社の言い分によると、売却費用は九州銀行に対する債務弁済に充てたものの、貸し渋りの状況に変化はなかったようだ。
当面の資金繰り確保と日銭を稼げるリフォーム工事の受注拡大のために、96年4月に丸栄硝子を(株)エイテックに社名変更。同年11月には(株)エイテックに組織変更して心機一転を図った。丸栄とエイテックの両社が、互いに受注物件をカバーする体制作りが目的であった。
しかし、業績は一向に好転せず、とくにエイテックは欠損幅を大きく膨らませていった。そのため、99年7月には、焦げ付きや損失などで債務超過に陥るなど財務面が軟弱になっていた丸栄にエイテックを吸収合併し、企業体力の強化を図った。
建設業界はその後も低迷を続け、工事の受注単価はさらに下落、収益面は悪化の一途を辿った。そのため、02年5月に保之氏はいったん妻・好美氏を社長にし、自らは会長に退いた。
03年1月、再び「神風」が吹く。保之氏の個人所有物件だった土地(東区社領3-4-33)が道路拡張のために収用され、空港周辺整備機構に約1億4,800万円で売却できたのだ。これによりようやく債務超過から脱却し、同年2月には長男・宣之氏を代表取締役社長に、妻・好美氏を取締役副社長にして、保之氏自身は退任した。
【大根田康介】
【本稿は6月11日号「IB」に掲載】
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