周囲の期待は不動産に
それでも収益面は低調に推移し、問い合わせが絶えることはなかった。建設業界は低迷を続け、工事の受注単価はさらに下落。毎期8億円前後の売上高を計上していたものの、収益面は悪化の一途を辿った。この間に社員数も大幅に減少。03年3月末時点で役員を含めて19名を数えた社員数は、倒産時には8名にまで減少していた。
また、前述の通り、借入金の多くは九州銀行からまかなっていたが、同行が2001年に親和銀行と経営統合して金融持株会社九州親和ホールディングスの傘下に入った。これにより、同行のケアが同社に行き届かなくなり、新たに福岡信用金庫との取引が始まるなど、資金余力に乏しい状況が続いていた。
追い打ちをかけるように、05年3月の福岡西方沖地震により在庫のガラス建材の多くが割れてしまい損失が発生。さらに、07年11月に施行された改正建築基準法の影響で新築着工件数が激減し、建設業界に大打撃を与えた。同社もその余波を受け、資金繰りが急速に逼迫した。
そうしたなか、07年6月に破綻した馬渡工業に対して約900万円の焦げ付きが発生。08年7月に破綻した(株)浅野工務店に対しても1,682万円の焦げ付きが発生するなど、与信管理面に問題を抱えていた。
また、以前から決算書が複数あることが話題に上っていたが、やはり粉飾の疑いもあったようだ。07年3月期を見てみると、福岡県に提出した書類は【表】の左側だが、実際に裁判所に提出された資料は右側であり、業績は大きく下がる。売上高ベースで約4億円水増ししていたことがうかがえる。
以上の通り、破産への道は粉飾や業界環境の急激な悪化への対応が後手に回ったことで、ある意味で必然だった。ただ、破綻以前に取材した段階で関係者は「代表の保之氏は真面目に再建に取り組んでいる。当社としても応援していきたい」と語っていた。
しかし、当社への周囲の期待はもはや本業の再建にはなく、不動産売買における利益やそれにかかる担保余力などに絞られていた。事実、破綻直後の09年3月に本社屋とその土地が約3,954万円で空港周辺整備機構に売却され、主要取引行および取引先に分配されている。
二度の「神風」も、バブル期に本業を見失った時点で追い風とはならなかった。
【大根田康介】
【本稿は6月11日号「IB」に掲載】
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