バブルの負の遺産は重く
業績が急降下するなかでは、借り入れを増やさなくても負担が相対的に大きくなってしまう。同社の場合も例に漏れなかった。90年代半ばの同社の有利子負債は約15億円。実に年商と同等の額である。バブル崩壊から数年経ったとはいえ、いまだ貸出金利は数パーセントで推移しており、これが財務的な負担になっていたのは間違いない。また、財務面でのもうひとつの問題は、短期貸付金の存在であった。その額は約1億5,000万円。当時、徳田氏は「協力のため」と答えたとの資料が残っているが、いわゆる受注に対するバックリベートであったということだろうか。バブル崩壊による受注減少と鋼構造物業者の淘汰が始まっていた時期である。併せて、鋼材商社の力が増していく状況もあった。入口と出口の双方から締め付けられるなか、やむなく応じた出費であったのだろう。
バブルの負の遺産はまだある。バブル期に購入した1万坪にもおよぶ宮若町の土地がそれだ。福岡シティ銀行(当時)から借り入れを起こし、約3億7,000万円で購入した土地は、表面上、同社新工場の建設予定地とされていたが、実際にはトヨタ自動車九州が建設を予定していた新工場を当て込んだものであったと言われる。早い時期に処分できればそれなりの額になるため、頼みの綱との一面もあった。ところが、いつまでたっても処分に目処がつかない。結果、資金の固定化を招き、業績悪化の状況に追い討ちをかけることとなった。かかる状況下、98年9月期の繰越損失は約1億円にも膨れ上がっていた。
【田口 芳州】
【本稿は6月25日号「IB」に掲載】
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