(21)奴隷貿易の島で その2
私たちははじめに、奴隷が集められていたという通称「セレブハウス」と呼ばれる奴隷の家へ向かった。1777年に作られたというオランダの奴隷商人の家で、2階は住居、1階は奴隷を収容する部屋である。現在は博物館となっており、世界中から観光客が訪れている。
西アフリカ各地の港から1,000万人もの奴隷が、3カ月かけてアメリカに送られていたそうである。奴隷につけていたという10kgにもなる丸い鉄球がついた足かせがあった。ためしに持たせてもらったが重く、これで歩くのは大変な労力であったに違いない。
部屋は男性用と女性用、子ども、処女といくつかの部屋に分かれており、そこには小さな窓があるだけだ。男性の部屋は畳4畳分ほど。ここに15人から20人もの以上の奴隷が詰め込まれていたという。トイレは1日1回のみ。不衛生な環境である。男性は銃と交換され、子どもは鏡と交換された。痩せている男性は、体重が60kg以上にならないと銃と交換することができず、無理やりに食事を与え続けられていたという。反抗する奴隷は立てないほど天井が低く狭い部屋に押し込められるか、海に捨てられてサメの餌にされるかだったという。また、ゴレ島の各地には絞首台らしき場所もいくつかあり、ここで殺されたのかと考えさせられる。女性はヨーロッパ人の子どもを身ごもると、奴隷として売られなかったという。
部屋の奥には、「PAPE」という奴隷の落書きが残されている。「PAPE」というのは「教皇=神様」という意味である。おそらく文字を知っている奴隷が書いたものと思われる。さらに奥へ進むと、その先は大西洋が広がる。ガイドはここで「バイバイ、アフリカ」と語った。アメリカへ連れて行かれた奴隷たちは二度と故郷に帰ってくることはなかったという。
ゴレ島は、大航海時代にイギリスとフランスが領有権を争った場所でもある。各地にその当時の要塞らしき大砲が残っている。現在は博物館になっており、すし詰めに積み込まれた奴隷船の絵や、歴代ゴレ島の総督の肖像画が飾られている。今となっては南ヨーロッパ風の建物が並ぶ芸術家の島だが、過去の痛ましい記憶が各地に残っている。
この島は1978年に、人類へ教訓や警告を残す負の遺産として、世界遺産に登録されている。
【廣瀬】
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