鳥栖さん(仮名)は必死で正直に駆け巡ってきただけだが~
<社員OBがやってくる>
会社を上場会社まで成長させて売却し、責任を全うした、鳥栖さん(仮名)の自宅に遊びに行った。今は奥さんとゆったりした時間を過ごされている。最近、二人で引退旅行に行ってきたばかりだそうだ。「会社経営の緊張から解放されてホッとしているが、サー今後、何をしようかと思案中だ。しかし、周囲の同業者の方々を見渡すと、事業継続をどうしようかと思案されているというか、途方にくれているケースが多い。本当に中小企業の経営者は安らかに引退ができない環境にある。私の場合は良い巡り合わせがあったから救われた」と振り返る。
現在、一番嬉しいのは、鳥栖さんの会社から独立したOBたちが自宅に立ち寄ってくれることだ。たくさんの自営業者を生み出したが、人並みに食べていけているのは5人くらいというところか。彼らが異口同音に語るのは、「社長が常々、『仕事をいただく苦労を知れ!!』と言われていたことが身に沁みます。多少の腕があるからといって仕事が向こうから来ることはないことを知りました。いかに人間関係が大切かを痛感しましたし、個人になると見くびられ叩かれますね」ということだ。彼らが、鳥栖さんに商売の原点を説かれたことに感謝の意を表していることには、目頭が熱くなる。「しかし、5人のOBたちのビジネスの行く末も楽観はできない。500万の年収が確保できれば御の字だ」とも前途を厳しく占う。
<結局はツキがすべて>
鳥栖氏は、大学を出て経理担当のサラリーマンとして40歳まで勤めていた。子どもたちが育ってくると「とてもじゃないが、この給料では子どもたちを大学まで進められない」という危機感が募ってきた。「これが事業を起こす動機であり、何も高い志があったわけでもない」と同氏は率直に語ってくれた。「当時の価格で500万円の機械を買えば商売が可能」と判断して、同僚と事業を起こしたのが昭和53年である。だから経営者として、一心不乱に30年間疾走してきたことになる。
同氏が開業した世界は、30年前とは激変している。業態がまるで変わった。設立した時は受けて市場でどこも儲かっていた。10年続いただろうか。昭和60年代の終わりからコンピューター化が進み、対応に大わらわだったそうだ。「旧態依然としていたら仕事が無くなる」という夢でうなされたことも数多くあったという。東京にも月に1回勉強に行ったりした。必死で時代の流れを掴み、対策を講じてきた。「私が技術者、職人でなかったから幸いしたのかもしれない。だから馬鹿正直に方向転換できた」と解説してくれる。
「だが、30年の経営を総括してみると、どんなに努力をしようとも、運・ツキがあるかないかが、経営者として成功するかしないかの分かれ目のような気がする」と結論を下す。現在の自宅は、株の売却益で取得した。株転がしをやってきたのでない。たまたま知り合った若い株セールスマンが勧めてくれた銘柄を買った。この銘柄が上場間もなかったこともあり急上昇した。おかげで新居購入資金を得たという。振り返ると、要所、要所で大なり小なりのツキが左右したようだ。天国に昇天するためには、このツキが決定的な役割を果たすのである。
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