あっけない幕切れとはこのようなことか?『ふく鮨本舗の三太郎』の名でお馴染みの地元宅配すしチェーン経営の(株)ドゥイットナウ(代表:蔀 章氏)は、2008年8月に民事再生法を申請し破綻。再生を期して奮闘したが、09年10月20日に再生廃止決定が福岡地裁より下された。
栄枯盛衰の19年間
(株)ドゥイットナウは1990年8月に設立された。創業者の蔀章氏は、自衛隊のレンジャー部隊から日本マクドナルドに転身した一風変わった職歴を経験。その後31歳のときに「社長になる」と決意し同社を設立した。当初は経営コンサルティングを生業とし、“営業”をテーマとする講演やコンサルティングの仕事が増え続け、事業は順調であった。しかし、蔀氏自身が健康を害し、4年目でコンサルティング業は辞めた。当時を知る関係者は、「蔀さんは自分でとことんやらねば気が済まない性格。だから仕事も遊びも手を抜かず突っ走った。それがあまり良くなかったのではないか」と述懐する。
その後、「日銭商売の実業をしよう」とサラリーマン時代の経験を活かし、95年7月に早良区有田に宅配すし第1号店をオープン。寿司に関しては全くの素人であった蔀氏。顧客を極力待たせないシステムを飲食業界の勤務経験を活かして構築し、また米と魚をその道のプロに教えを請いながら自身で徹底的に研究した。こだわり素材の寿司でかつ価格もリーズナブルであったこと、待たせないデリバリーを確立させたことで、寿司業界に新風を巻き起こした。業績も年商10億円台をキープするようになり、上昇気流に乗り名実ともに宅配寿司のトップクラスに躍り出た。徹底した顧客第一を標榜し数々の心づくしのもてなしを実践し、寿司ネタ=素材の厳選により福岡の宅配すしのシェアを席巻。さらに「空弁」「旅弁」のネーミングで弁当の開発・販売をして博多のみならず全国へ『ふく鮨本舗の三太郎』ブランドは浸透していった。07年5月期の売上高は15億5,214万円を計上し、店舗は29を数えたが、大手筋の競合店舗が進出し価格競争に巻き込まれ、チラシなどの配布による販売促進費の増大や原材料費の高騰で資金繰りが逼迫。消費低迷による業績悪化で行き詰まり、08年8月20日に福岡地裁に民事再生法の適用を申請した。
危機感が希薄だったのか?
破綻から1週間後の8月27日に債権者集会が開かれた。その場での様子を知る関係者によると、「確かに民事再生法の申請に至ったことについてお詫びがあった。だが、蔀氏は淡々としており、それほど悲壮感はなかった。通常、債権者集会はある種さらし者のような集中砲火を受けることが大にしてあるが、氏のキャラクターなのかこの日の集会はそう混乱もなく、“何とかやって行きそうだな”という債権者らの雰囲気が漂っていた」という。また金融機関との関係に関しては、リスケなどの協議を持ちかけたが、応じてもらえず返済期限が次々に迫り、1,000万単位の高額の返済資金を用立てる事ができなかった。このままでは破産してしまう恐れがあり、それを回避すべく債権者と一律に公平な協議を行い、体力のあるうちに民事再生法を申請するに至ったという。再生開始は9月3日。9月に入り店舗を10店舗閉鎖、人削減などによるリストラの実施で07年9月の月商売上高が9,995万円に対し08年9月は3,941万円に減少。一方で粗利益率は改善され、営業利益もマイナス261万円であるものの、07年9月の1,050万円の営業赤字より率も改善されている。全てにおいて必要最小限の経費で経営をまかない収益率の改善を目指して再建を実施していた。ただ本当に債権者の同意を得られるネゴシエーションをこの時期から蔀氏がきめ細やかに実践していたのか?店舗の日常業務はスリム化された中でも日常の宅配業務は行われていたので危機感が薄れたのであろうか?
【河原清明】
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