2008年11月14日、福岡経済界に激震が走った。福岡不動産業界の巨星、ディックスクロキが民事再生法適用を申請したのだ。負債総額は180億円あまり。不動産の証券化やファンドへのビルの一棟売りで業績を伸ばし続けた同社は福岡の期待の星であったと言っても過言ではない。1984年にJASDAQ上場を果たしパブリックカンパニーとして福岡の経済を引っ張っていった。九州を中心に管理するビルが300棟を超えるなど、その業容の大きさには驚かされる。
そのディックスクロキの創業者、黒木透氏。人一倍の野心を持ち、それを実現してきた黒木氏とはどのような人物なのか。破たんの原因は何だったのか。黒木透氏にその生い立ちから破たんの裏側まで聞いた。(以下敬称略)
<貧しかった幼少期>
昭和30年(1955年)3月21日、黒木透は宮崎県高城町(現都城市高城町)に生まれた。6人兄妹の下から2番目。林業と農業を営む家庭に育つ。当時は戦後復興10年ということもあり、国民全体が決して裕福とは言い切れない時代ではあった。黒木家もその例に漏れなかった。兄妹が多いため食事も一所懸命かき込まなくては食べ損ねてしまうこともあったという。
「学校に履いていく靴がないときもありました。そのときはわら草履で行くこともありましたよ」
幼い頃から競争することを学んだ黒木は昭和35年、高城町立四家小学校に入学する。勉強はそこそこに、家業の手伝いもやりながらの小学校生活だったと黒木は振り返る。40人くらいいるクラスの中でも7、8番くらいの成績だった。性格は慎重な兄たちに比べて穏やかだったという。
小学校5年になると、林業と農業の手伝いだけではなく、アルバイトも始めることになる。昭和40年ごろの日本は国中で道路整備が行なわれているときであり、高城町でも農道にアスファルトが敷かれるようになっていた。黒木は学校が休みの土日はその現場に行き、一輪車で資材を運ぶなどして日当をもらっていた。遊びたい盛りにもかかわらず、アルバイトをする。さぞ苦痛だろうと思ったが、さにあらず。黒木は言う。
「苦痛に思うことなんてありませんでした。むしろ楽しかったですよ。一輪車にセメントを載せて運ぶのも、どうやったらより多くの量を一度に運ぶことができるか、より早く運ぶことができるかなど考えていました。その上、お金までもらえるのですから。私の家は貧乏ではあったけれど、お金に不自由を感じることはありませんでした。仕事をしたらお金はもらえますから」
黒木の仕事に対する姿勢はこの頃に固まったのかもしれない。加えて、いかに作業効率を上げるか、ということを考えている点も後の人生に影響を与えたと思われる。
アルバイト以外でも黒木は様々なことに工夫を加えることが好きな少年だったという。黒木家の子どもの仕事のうちに水汲みがあった。近くまで水場まで水を汲みに行き、肩にかついで持ち帰る。水はとても重たくて、子どもには過酷な作業だった。これを何とか楽にしたい。黒木は考えた。親戚のおじさんに井戸の掘り方を尋ね、中古のポンプ、パイプを入手する。資金は自分のアルバイトで得た分を使った。自分で井戸を掘り、ポンプを設置してパイプを引き込んだ。水が流れたときは嬉しかったという。これを小学5年生の少年がやってのけた。
「井戸水っていうのは年中一定の水温ですから、冬の寒い時期でも母は温かい水で食器洗いをしたり、夏はスイカを冷やしたりできました。人に頼むとお金がかかるでしょう。自分でやればポンプとパイプ代だけで済みますから」
【柳 茂嘉】
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