<寝食を忘れて人の20倍働く>
黒木が副業をしていたことは、工務店側もうっすらと感づいてはいた。しかし、何も言わなかった。それは、黒木が本業を一所懸命こなしていたからだ。成績も人一倍残している。
当時の黒木の生活はこうだった。朝は定時に出勤をし、夜は仕事の切りをつけて帰る。それから机の上で、資産コンサルタントとして顧客の資産活用案の計算に深夜、ときには朝まで取り組む。そして出勤する。この繰り返しだった。仕事が休みの土日には、遠くは鹿児島まで提案書を携えて出張し、月曜日の朝には会社に戻り業務をこなす。
会社では普通の営業マンの倍の働きをし、副業では普通の会社員の10倍もの収入を得る仕事をする。2倍×10倍。20倍の努力を重ねたのだ。
日本電建との出会いを好機と捉え、その手法をしっかりとわが物にしてしまった。そして持ち前の社交性を生かして営業活動をする。工務店にとっても自分にとっても、WIN-WINの関係を築いていたのである。
ただし、この年収を得るためには大きなツールが必要だった。それがコンピュータである。最初のうちは鉛筆とノートによる計算で何とかしのいでいたが、そのうち限界を感じ始めたのだ。コンピュータが欲しい。昭和59年、黒木はそう思うようになった。これがあればコンサル先の基礎数値を打ち込むだけで、即座に正確な運用計算ができる。
当時のコンピュータは今のそれとは違い、サイズも大きくて、ソフト自体も大きな配電基盤を入れ込むようなものだった。当然値段も高かった。およそ200万円。高級乗用車が80万円で手に入る時代に200万円は大金だ。一個人が手にするには法外な値段。けれども、これさえあれば、もっと多くの顧客を持つことができる。
コンピュータを手に入れるためには大金が必要だ。工務店の収入だけでは買うことができない。加えて、工務店に迷惑をかけるわけにはいかないから、昼の時間は使えない。ならばあきらめるか――その選択肢は黒木にはなかった。昼がダメなら夜働こう。それならば文句はあるまい。目標が決まった黒木には、とにかく短時間で資金を得ることしか頭になかった。夜の街、中洲で働くことを決めたのだ。
昼は工務店の営業を、夜は中洲で特技のダンスを活かしたホスト稼業に精を出す毎日を送った。朝から夜までは工務店で働き、夜の10時から深夜2時くらいまでアルバイトをする。まさに寝食を忘れて働きつめ、購入資金を手にしたのだ。そして、念願のコンピュータを手にする。
【柳 茂嘉】
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