<後釜を育てて機をうかがう>
昭和60年頃から、黒木は後輩への引き継ぎ業務を開始する。お世話になった工務店にダメージを与えることなく去るためである。工務店によく顔を出す広告代理店の営業マンを口説き、工務店に引き抜いた。若いがガッツのある若者に、黒木は自分のしてきたことすべてを学ばせるつもりで教育を施す。
毎日、黒木の後ろで自分の仕事を見せ続けた。顧客との折衝、その進め方、契約の取り交わし方、アフターフォロー。若い工務店営業マンには何も語らせず、自分の仕事を盗ませることに黒木は徹した。そんな日々を2年間続けたのだった。
後輩の育成をしながら、コンサルタントの副業も着々とこなしていく。まさに月月火水木金金の生活である。
「苦しいなんて思いませんでした。やればやるだけ、結果がついてきましたから」
当時、超高級品だった携帯電話を持ち、全国を駆け回る生活を送っていた。土曜の夜に東京に行き、日曜の深夜に帰福する。そして夜を徹して計算書を作成する。朝、10分くらい遅刻することもたまにはあった。工務店の営業も同じ情熱で取り組んだ。大手の建設会社と競り合うこともあった。
黒木の仕事の進め方を知る好例がある。福岡最大手の工務店とコンペになったときのことだ。黒木は、相手工務店がお盆休みに入ったときを見計らって、営業先資産家の自宅へ提案書を持って行った。お盆を休みと考えるより、営業で確実に一歩差をつけられる好機と捉えたのである。結果、翌日の朝一番、資産家の自宅で契約書に判をもらうことに成功した。もちろん、提案内容でも相手より有利なものだったが、内容より情熱が買われたのだろう。最後には「ありがとう」と感謝の言葉までもらった。それほどの熱意をもって工務店の営業を行なっていたのである。後釜に指名された若者は、大変な仕事ぶりを目の当たりにしたことだろう。そして、自分に課せられた高いハードルを実感したに違いない。
その間も、黒木は週末のコンサルタント業を着々と進めていた。後輩を育てるのは、自分が独立するという目的のための手段。後輩育成に尽力し、コンサルタントの顧客を取りこぼしては本末転倒なのである。工務店と同じ情熱をもってコンサルタント業をこなしていた。どちらが本業でどちらが副業か、それは黒木にとって問題ではなかったのだ。どちらも自分の仕事。そしてどちらも、人一倍の成績を残した。
後輩が十分育ったと感じた昭和62年、黒木は独立するために工務店に辞表を提出する。
【柳 茂嘉】
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