<いざ、独立>
後輩は育てた。営業の引継ぎもすべて終えた。いよいよ船出のときである。
辞表を提出する。工務店の上司の視線が冷たく感じた。引き止められることはなかった。会社側も、自分が副業をしていることは知っていたし、独立を考えていることも知っていたからだ。
けれども黒木の心にはしっくりこないところもあった。何か分からないが、後ろめたさのようなものがあったという。お世話になった工務店にダメージを与えないよう万全の策を講じはしたが、やはり寂しさのような感情がわいてきたからかもしれない。とはいえ、全国のクライアントが黒木を待っていた。『早く独立しろ』、と。黒木は静かに社を後にした。
昭和62年、黒木は二足のわらじの片方を脱ぎ、コンサルタント事務所経営に専念することになる。ゴッホの油彩画『ひまわり』に日本企業が53億円の値をつけ、日本国内がバブルに沸き立ち始めた年である。
事務所には、独立の2年前から「黒木公益計算事務所」という看板を掲げていた。公益計算事務所とは聞き慣れない名前だが、公(おおやけ)から広く利益をいただくための計算をする事務所、という意味だという。看板は掲げられているが、実際は自宅の一室が充てられているだけで、組織的にも事務員さんと黒木の2名で運営していた。設備は虎の子のコンピュータ。これを元に計算をして、クライアントを満足させる提案をするのである。
これまでウィークデーは工務店、週末と夜だけ自分の仕事、という生活だったのが、毎日を自分の仕事に充てられるようになったのだ。黒木にとってコンサルタント一本の生活は足から重石が取り払われて、背中から翼が生えたような思いだったに違いない。毎日、営業ができるし、好きなように時間を組める。営業範囲も東京以西、どこでも携帯電話を肩から下げて行なったという。
新規営業のほとんどが、既存顧客からの紹介だった。既存顧客のメンツをつぶしてはならない。必死だった。必死に次から次へとこなしてゆく。提案から銀行への融資相談、工務店、職人の手配まで仕事は山積みだった。しかも、昨日が福岡、今日が東京、明日が鹿児島という動きである。体力の限界まで働いた。その結果、売り上げも信じられないほど上がっていった。お金が積み上がっていく様子を示すエピソードがある。
「ある週末の午後、出張をしていた私に事務所から電話がかかってきました。『○○さんがいらっしゃってお金を払ってくださったのですが、銀行がもう閉まっていてお金を入れることができないんです。どうしたらいいでしょうか』と。私は、金庫に入れておけ、と言ったのですが、金庫も満杯で入らないと言うんです。どこでもいいから見えないところに入れておけ、と言い電話を切りました。出張先から帰ってくると、帯封がされた大金が、冷蔵庫で冷やされていました」
【柳 茂嘉】
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