福岡県町村会の県庁職員に対する裏金接待疑惑は、県町村会会長・山本文男容疑者(添田町長)と前福岡県副知事・中島孝之容疑者の贈収賄事件へ発展した。接待疑惑の対象は、中島容疑者以外の県庁幹部にも及んでいる。一連の事件の発生要因は、福岡県庁の組織体質によるところが大きいのではないだろうか。そこで県政取材班は、県職員OBの天野康夫氏とコンタクトを取り、インタビューを行なった。中島容疑者と同世代であり、県政の現場にいた天野氏は、今回の事件をどう見ているのか?
―まず、天野さんの県職員時代の経歴について教えて下さい。
天野 私は大学を卒業後1974年に就職し、県職員として25歳から45歳までの20年間勤務しました。最初の10年間は農業改良普及員として、大川市や三潴郡のいぐさ農家に対し、“考える農民を作る”という目的で指導を行ないました。言ってみれば先生のような仕事です。その時、農業の素晴らしさはもちろんのこと、“地域のつながり”を学びました。
しかし、時代の変遷とともに私の役割も変化しました。当初は、いぐさの作り方を教えていたのですが、上海や台湾から安価のいぐさが輸入されて市場で価格競争が始まり、いつの間にか売り方を教えるようになったのです。
その状況に危機感を抱き、35歳の時、技術指導員という名目で、上海へ“敵地視察”に行きました。これが誤解されて反感を買いましてね。「なぜ敵に技術を教えるのか」、「非国民!」と、ひどい言われようでした。そして、帰国したら配置転換です。現場を離れた後、筑後農林事務所、福岡農林事務所に5年ずつ勤めて退職いたしました。
―中島容疑者についてはどう思いますか?
天野 彼は非常に真面目だと思います。彼が最初に配属されたのは、田川市の福祉事務所です。そこでケースワーカー(生活保護受給者に対して相談援助を行なう職員)として働きました。当時は炭鉱の閉山が相次ぎ、失業者が溢れていた時代です。生活保護の不正受給者が多く、なかには自分で指を切り落としたり、夜はスナックで働いていながら収入を偽ったりして、生活保護手当を得ようとする人たちが多かったのです。
それは職員の誰もが嫌がる仕事でした。なぜなら、そうした不正受給者は、法や条例を持ち出しても通用する相手ではありません。理屈を言っても聞いてもらえないのですから。生半可な覚悟ではできないのです。仕事をしていくためには、まず土地の人の信頼を得るところから始めなければいけません。そして、時として“長いものに巻かれる”ということも避けられなかったのかもしれません。
【文・構成:県政取材班】
<プロフィール>
天野 康夫(あまの・やすお)氏
1949年2月12日、福岡市博多区住吉生まれ。京都大学農学部卒業後、福岡県庁に入庁。94年、45歳で退職し、以後さまざまな職業に就く。現在は自営業。「往生鯉太郎」のペンネームでの著書に『にっぽん脳民ものがたり』(櫂歌書房)がある。
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