<屈辱から学び組織化を決意する>
自分に足りないもの。自分には知恵はあるが知識がない。黒木は大工として訓練校で学んで以来、社会の最前線で戦ってきたのだ。学問的な知識、これが足りない。警察で言われたようにコンサルタントとしての免許があるわけじゃあない。ならば免許のある人を雇ったらいいのではないか。
黒木は組織化を思いたった。一級建築士と宅地建物取引責任者を雇い入れることにし、屋号も変更した。平成2年、苦い経験を糧に黒木事務所として再出発を果たしたのだ。
警察の取り調べという屈辱を味わったが、そこからも何かを学んだのである。転んでもただでは起きないのが黒木流ということだ。これまでは顧客からの紹介による仕事が多く、個人だから組織だからという信用の差を感じることがなかった。ところが社会の、自分をまったく知らない第三者からの目は違う。それを警察が教えてくれたのである。公から堂々と利益をいただくという思いで立ち上げた事務所が詐欺呼ばわりされたことが、それだけ大きく黒木の考えを変えさせたのである。
一人で全国を飛び回っていた時とはわけが違う。社員の育成、組織の運営が新たな仕事として加わった。黒木は徹底して自分の流儀を貫く。社用車はベンツ。休日は金・土・日の週3日にこだわる。仕事もプライベートも存分に楽しむ。これが黒木の考え方だった。雇用を生んだことで社会に貢献しているという意識も生まれた。
翌平成3年には不動産と建築を扱う株式会社クロキビルディングを設立する。黒木事務所と合わせても社員数は6名。黒木は社長として、胸を張って、采配をふるった。
バブル経済と後に呼ばれる状態の日本では不動産は右から左に流すと利益が生まれた。利を求めて不埒な輩(やから)や暴力団も不動産に絡んでくるようになる。黒木も何度か暴力団と対峙することがあったが、屈することなく事業を展開していった。堂々と商売ができる喜びを噛みしめていたのである。
そんな中、昭和の末期から手がけていた大型リゾートマンションの竣工が近づいてきた。ある不動産会社からの申し出で取り組んだ二丈町福吉(現糸島市)の物件である。バブルに踊った日本経済の象徴というべきか、全国的にリゾートマンションの建設が行なわれており、この物件もそのひとつだった。
【柳 茂嘉】
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