福岡県政の実情を知るために県議へのインタビュー取材を行っている。第3回は、民主・県政クラブの幹事長を務めている新村雅彦県議。今回は教職員から政治家に転身した新村県議に話を聞いた。
―県議会議員になった経緯を教えて下さい。
新村 私は、福岡市教職員組合専従役員を務めていました。当時、県議会議員は組合役員の名誉職のような感じでした。引退した前任者の後を引き継ぎ立候補するという流れです。もちろん、立候補するには公務員(市教員)を辞めなければなりません。従って、ほとんどの場合は60歳手前で引き継ぐのです。組合や旧社会党といった団体の力が強く、それこそ何もしなくても当選できていた時代の話です。
―言ってみれば、“天下り”ではなくて“天上り”ですね。新村県議も同様に当選されたのですか?
新村 いいえ。自分が初当選した99年は、組合や団体の力だけでは勝てないようになっていました。組織票のみならず、地域の人々の支持も得なければならない。総合力が問われるようになっていたのです。むしろ、周囲から「無所属で出た方がいい」と言われるような状況です。それほど社民党の力が弱まっていました。しかし、それまで社民党2区代表を務めていた以上、無所属で出馬して落選するのは情けないと思いました。社民党として出馬したのは、意地とプライドです。結果、500票ぐらいの差(約12,500票を獲得)でなんとか当選しました。
―地域の人々にはどのように接しているのですか?
新村 これは選挙戦とは関係なくやっていることですが、99年から私はずっと、朝の駅立ちを続けています。毎週、火曜は高宮駅、水曜は大橋駅と立っています。初めは自分の政治理念などを語っていましたが、みなさん通勤中ですから誰も聞いてくれません。3日ぐらいで演説はやめて、以後、あいさつだけをするようにしました。最初は午前7時30分から9時までの90分、06年から午前6時45分から9時15分までの2時間半続けるようにしています。
―人々の反応はどうでしたか?
新村 最初は無視されることが多かったです。その時、教職員時代の経験を思い出しました。クラスにひとりかふたりは、ずっと面白くなさそうな顔をして私の授業を聞いている生徒がいました。私は「1年内にその子の笑顔を見る」と決めてあきらめずに接してきたのです。
駅立ちのあいさつも同様にやりました。すると、5、6年経ってから、今まで無視していた人があいさつを返してくれるようになったのです。また、体調不良や仕事の都合で駅立ちを休むと、次に立った時、心配して声をかけてくる人も出てきました。通行人から陳情を受ける時もあります。人と人のつながりの妙というものを学んだ気がします。常日頃言っていますが、私は“駅立ちができなくなった時は引退する”つもりです。
(つづく)
<プロフィール>
新村雅彦(にいむら・まさひこ)
1952年9月4日田川市に生まれ、福岡市で育つ。山口大学経済学部を卒業後、中学校社会科の福岡市教職員となる。94年9月に教職員を退職。99年、県議会議員に初当選、03年、07年と再選を果たす。現在は、民主・県政クラブ幹事長、新社会推進商工委員、国際交流推進対策調査特別委員を務めている。
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