<本社ビルを建てる>
痛くもない腹を探られた3カ月、それが原因で必要性を感じ組織化した。堂々と商売ができるような仕組みを整えた直後、一個の石によって足元をすくわれた。苦い経験が続いた。前者はまったくいわれのないことだが、後者は自己の慢心にも原因があったと黒木は語る。自分は現場も知っている。土地の活用法も知っている。これくらいのところならボーリングをしておけば大丈夫なはずだ。これが油断だったのである。
黒木は気持ちを引き締めなおして、これまで以上に積極的に事業展開をしたのだ。大きな損害は出したが、それでも黒木の懐の許す範囲内だった。反省をして再出発をするのには何の障害にもならなかった。コンサルタント事業と不動産の開発。次々と黒木がプロデュースしたビルが立っていった。そうしていくうちに自分を含めて6人の体制では心もとなくなっていった。
平成3年11月。黒木は福岡市南区平和に本社ビルを建てる。4階建てで100平米が3フロア、一回が駐車場となっていた。一階の駐車場には社用車であるベンツが停められていた。高級スーツをビシッときめた若者が、ベンツに乗って颯爽(さっそう)とどこかに走っていく。本社ビルができるのと時を同じくして新入社員の募集も始めた。真新しいビルに周囲は不安な視線を送っていたという。
「黒木事務所と看板はあるが、何の事務所か分からなかったようです。ベンツに乗って若い男の人が出ていく様子は周囲にはおかしく映っていたのでしょう。口にこそ出さないですが、その視線を感じておりました。新入社員の募集もかけていたのですが、応募してくれた方がビルと車を見てUターンして帰ってしまうのですよ」。
そんななかでも気骨ある人が入社を決意してくれたという。黒木は面接の際、履歴書を重視しなかった。他社で断られるような職歴を持っていても、黒木はその人を見て採用を決めたという。髪の毛が茶色だったり、長かったり。世間では受け入れられなかった人を、あえて積極的に採用した。新たな社員たちは、その黒木の懐の深さに感銘を受けて一所懸命働いてくれたという。この頃の社員たちの中から、後の取締役も誕生している。
本社ができ、新入社員も入社させた。これで営業が強化できる。人材を育成し社会に貢献することができるという喜びも同時に感じていた。その先にある目標の「上場」もぼんやりと見えてきていた。
【柳 茂嘉】
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