<家庭をかえりみず>
徐々に人が増えていった。黒木は、これまでのプレーヤーからプレイングマネージャーへと立場を変えていった。若者に一から指導する。右も左も分からない若者たちに、ときに黒木は大声を張り上げることもあったという。
「若手社員が権利書を受け取った後、『明日お金を振り込んでおきますから』という対応をしたことがありました。それを知った私は道端で社員を直立させて大声で叱りつけました。『権利書とお金は、その場で交換するのが当たり前だ。もしお前が今日、死んでしまったらどうするのか。お客様に迷惑がかかるだろう』と。顧問弁護士や不動産の専門家も私たちにはついてくれていましたから、聞くことを恥と思わずに、知らないことは聞くようにと指導していました」。
右も左も分からない新入社員である。つい先ごろまで長い茶色の髪をしていた若者。分からないのは、むしろ当たり前なのだ。黒木は分からないなら聞くように、自分勝手に判断して事を進めることを厳しく諫(いさ)めた。
「自分の能力を過信して人に聞かないのは一番やってはいけないことだと口をすっぱくして言いました。加えて、人情で仕事をすることはいけないことだとも教えました。リスクはそういう部分から発生するのだ、と」
本社ビルを建てた頃の黒木は、会社こそ週休3日だったが、自身は毎日、プライベートな時間をほとんどとることなく仕事に没頭していた。当時の楽しみを聞くと、返ってきた答えは売上と利益を得ることと落成パーティだったという。長男も誕生し、家庭では子育てが忙しかったに違いない。けれども、黒木は何よりも仕事を優先させた。
これだけの顧客を得ることができたのだ。まずは福岡で一番になることを目指そう。
黒木の目標が定まった。あとはそこへ向けて走るだけである。黒木には自由になる時間がほとんどなくなってしまった。太陽の上がっている間は社員と走りまわり、陽が落ちれば協力してくれる業者と中洲へ繰り出す。次の日も、その次の日も。毎日がそんな状態だった。中洲へ落とすお金は年間で3,000万円にも上っていた。
【柳 茂嘉】
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