フリーペーパーの「原点」はタウン情報誌である。タウン誌は本来、文字通り町の情報を取り上げたものであった。組織も小さく、新聞社ほどの予算もない。だが、新聞が取り上げないような細かな情報をも取り上げることで浸透していった。
かつてのタウン誌は、人々の知りたい情報がまんべんなく載っていた。やがて、町のみんなが育てるものであるという共通の認識が芽生え、地域の企業や店舗が広告を出し、地域の住民が本を買った。タウン誌は、“地域社会の人たちの媒体”として、読者の欲しい情報を熟知して発信していたため、売れた。また、表回りの広告には、地場の大手企業がスポンサーとなるケースも多かった。
タウン誌に広告を出せない企業などの情報も、無料の「記事情報」として拾うことができた。たとえば、和菓子店、駄菓子店、たこ焼き屋といった100円、10円単位の商品を販売する店舗である。人気の居酒屋や美容室のように、広告予算が工面できるわけではない。このような業種は、読者へのプレゼントや割引サービスなどを提供することで情報誌に掲載された。大小あわせ、地域の最新情報が満載のタウン誌は、新聞でも敵わなかった。
以前はそれで成り立っていた。地域情報媒体の絶対数が少なかったこともある。しかし近年は、ローカライズされた全国大手情報誌の登場やフリーペーパーの台頭で、地元タウン誌は広告収入が激減。さらにはインターネットや個人ブログなどの普及が追い討ちとなり、本来タウン誌の独壇場であった、身近で速報性のある情報や口コミ情報の「スピード」に追従できなくなっていった。やがてタウン誌の存在価値は薄れ、福岡では圧倒的な強さを誇っていた『シティ情報ふくおか』の発行元・プランニング秀巧社の破綻という事態にもつながった(現在は別会社が発行)。
当然のことだが、浪花節だけでは企業は成り立たない。広告収入を確保しなければ事業を継続できないからだ。しかし、時代は激変した。経営資源の確保のために、各社が頭を悩ませている。だが、フリーペーパーを「飽きた」という読者の多くは、広告に偏った情報ではなく、もっと生活に密着した情報を求めているのではないだろうか。
改めて考えるフリーペーパーの「原点」は、町の人たちが育てたくなる媒体にすることであろう。広告収入を確保することも大事だが、その前に、もっと読者の「声」を聴く場を作るべきではなかろうか。読者の声を聞かない、独りよがりの媒体に、明日はない。
【朝倉】
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