<ビジネスマンとしての顔、父親としての顔>
平成8年ごろのことだった。上場のセミナーを聞いた後、黒木は上場を目指すことを考えるようになった。周囲に話をしても誰も真剣に取り合ってくれない。
「上場なんて本気で考えているのですか?お金もかかるだろうし、何より上場できるのは立派な会社だけ。うちじゃあ無理ですよ」。
社長の絵空事と取締役にすら真面目に伝わらないほどの話だった。けれども黒木は順調すぎる業績に伴う、ある懸念が生じていたのだ。それは借り入れである。自社で取り扱う不動産の量が増えるにつれて、銀行からの借り入れが増加していった。黒木の会社は大きくなったとはいえ個人企業である。銀行の貸し出しも慎重になって当然だ。優良企業に融資したい。けれども、裏づけが何もなければ貸し倒れの不安もある。銀行は当然、安全策を打ってきていたのだ。
銀行はおよそすべての融資に対して黒木の個人連帯保証をつけた。万一会社が危機的になっても、黒木の個人資産まで回収することができる。銀行は当然のことをしたまでであるし、黒木としても仕方がないと腹をくくっていた。けれども、黒木の頭に万が一の不安がよぎる。万が一、自分の身に何かが起こり、万万が一、会社に危機が訪れたら一体どうなるだろう。会社が倒産したと同時に債権者は家に押し寄せる。金目のものをすべて取り上げて競売にかけるだろう。残された家族はどう生活していけばいいというのか。そのとき、私が健康だったのなら道はあるかも知れないが、自分の身に何かが起こったら家族の力だけでやっていくことはできないかも知れない。借り入れが数十億。その連帯保証をしているのだから、個人破産もせねばなるまい。家を追い出されて、路頭に迷ってしまうだろう。個人企業だから仕方がないことだが、常に爆弾を抱えているような感覚が黒木にまとわりついていたのだ。
会社を上場すると、会社の所有者は多くの株主になってしまう。社長も会社の組織を運営するためのコマの一つということになる。自分の会社ではなくなり、権限にも制約が出るかもしれない。けれども、自分の会社ではないのだから、社の借金の連帯保証をする理由もなくなる。連帯保証を外れたなら、少なくとも家族は守ることができる。今のままでは常に社と自分の運命に家族を巻き込まなくてはならない危険があるのだ。
黒木が上場を決意した理由は、福岡で一番になりたい、というビジネスマンとしての欲求と、家族を守りたい、という父親としての責任に由来するものだったのである。
【柳 茂嘉】
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