<てんやわんやの社内>
上場することを目標にした黒木は、まず社内のシステムから手をつけた。株式を上場するためには、必ず経営を可視化しなくてはならない。誰が、いつ、どのように見ても分かるように経営内容を公開しなくてはならないのだ。書式を一つひとつ検めてみる。何一つ合格点が与えられる書類はなかった。
来る日も来る日も、書式を検討し、足りない部分はどこか、過ぎている部分はどこかを修正していく。稟議書ひとつに至るまで改善を重ねた。周囲からはさまざまな愚痴がこぼれたという。
「また社長のわがままが始まった。どうせ上場なんかできないのだから、書類を改めても仕方がなかろう」。
「昨日までのやり方で利益が充分にあがっているのだから、あえて変える必要があるのだろうか」。
そんなフラストレーションは社の中にたまりにたまっていった。それは同時に、黒木の会社がいかに未成熟な会社であったかを示していた。社会では当たり前の書式が揃っていなかったり、社長の決断、部長の決断で事が進んだり。個人企業ならばそれでよい。社内のシステムを公(おおやけ)にする必要がないからだ。けれども上場企業というと違う。パブリックカンパニー、すなわち公的な企業となるのである。公的企業ならば経営の透明化、可視化が必要になるのだ。それが株主の判断材料になるためだが、その準備は煩雑を極める。黒木の場合でも上を下への大仕事となったのである。
もっとも負担がかかったのは営業部だという。これまでならば、部長、社長に直接に話をして許可をもらえばよかった。これが稟議が導入されることによって時間がかかるようになったのである。今、提案を持っていきたいのに稟議に判が揃っていないために、それができない。一体、どうなっているんだと腹を立てる。書類が悪い、と事務員を責める。社内に険悪なムードが漂い始めたのだ。もどかしさが張り詰めた空気を醸し出していた。大事の前にはいさかいが起きるもの。それは想定の範囲内だった。
黒木は不満がたまっている社員を見つけると食事に誘うようにした。すまんが頼むよと声をかけた。新たな仕組みが定着するまでの間の不満は、黒木の人たらしのうまさで何とか抑えこむことができた。まるで臓器を移植し拒絶反応が出て薬で収まった後に機能を始める、そんな様子だった。
【柳 茂嘉】
*記事へのご意見はこちら
※記事へのご意見はこちら