<お疲れさん>
黒木はドスの利いた声にもたじろぐことはなかった。理由は簡単である。女性に対して何もしていなかったからだ。
「あぁ、あなたの彼女だったんですか。私のところに電話がかかってきまして、食事をしたいと言うのでご一緒させていただきましたよ。それが何か」
その一言で充分だった。相手は二の句も継ぐことができず、すごすごと引き下がって電話を切った。美人局(つつもたせ)だったのだ。何もなかったからよかったものの、もし何かがあったら。金銭を要求されるくらいならまだよい。上場を危険にさらすことにもなりかねなかった。黒木は今まで以上に気を引き締めた。
11月。いよいよ株式を公開する日を迎える。気落ちすることもあったが、今となっては昔のこと。気持ちは晴れ晴れとしていた。ステップを一段登ることができる。社員の努力も報われる。連帯保証もはずれて家族も守ることができる。支えてくれた協力会の人たちにも恩返しができる。喜びでいっぱいだった。
全国にディックスクロキの名を知ってもらうことができる。営業もやりやすくなるだろう。融資も受けやすくなるかも知れない。大きな武器が手に入ったのだ。今のビジネスモデルで、どこまで成長させることができるだろうか。200億か、300億か。株価もいずれ上がるだろう。周囲の人は今から忙しくなると言う。四半期にごとに決算をしなくてはならないからだ。黒木にとって、それは大した問題ではなかった。これまでも大きな波を乗り越えてきたのだ。それくらいのことは何でもない。未来は明るいものにしか見えなかった。
その日、世話になっている人たちを集めて盛大にパーティを開いた。みんなが祝福してくれたことが黒木の幸福感をより高めた。明日から上場企業の経営者だ。今以上にがんばらなくてはならない。身の引き締まる思いもした。
パーティを終え、快い疲労をまとったまま帰宅した。黒木は妻に無事株式公開を果たしたことを告げる。妻は黒木の顔を見て言った。
「お疲れさん」
そのひと言だけだった。だが、この言葉にはこれまでの黒木の戦いを見続けてきた妻の思いがこめられていた。感謝、喜び、祝福。さまざまな気持ちがこめられていた。黒木は今でもその言葉を、言ってくれたときの思いをすべて覚えているという。
【柳 茂嘉】
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