今月1日から、朝日新聞と読売新聞が鹿児島県内の一部地域での記事や写真の相互配信を始めた。ネタの共有である。3月31日の朝日新聞朝刊には、その理由について「地域取材網の強化と充実が目的」としているが、そうとは思えない。
両紙が共有するネタは、自治体の発表ものや季節行事に限定するとしているが、要するに記者の主観が入らない内容ならどちらの新聞が取材したものでもかまわないということだ。見方を変えれば、読者はその程度の記事に金を出しているということになる。取材現場の記者からもため息ばかりが聞こえてくる。「記事の内容に間違いがないかどうか、他社のために神経を使うなんてばかばかしい」(中堅記者)。正直な感想だろう。
両社の内情に詳しい人間の話によれば、現場には相談もなく、東京サイドで話が決まったとされ、狙いは地方での人減らしなのだという。背景には、新聞業界の厳しい現実がある。
朝日新聞は、部数の落ち込みや広告収入の減少から、現在の東京、名古屋、大阪、西部の4本社体制を見直すことを検討している。名古屋と西部を縮小し、余った人員を東京や大阪に集め、紙面作りを集約させる。中央集権化である。
目的は、部数の少ない地方にかかる経費を削減し、3,000万人を超える人口を擁する首都圏や、同じく人口が集中している関西圏での報道内容を充実させること。不採算部門をスリム化した上で、部数確保を図りたいのだろうが、地方の読者は置き去りということだ。こうした事態に、「自殺行為ではないか」として新聞の将来を危惧する声が上がっているのも事実である。
地方の取材網を簡素化し、記者を減らす。「できる記者」は首都圏などに集中させ、大都市における報道内容を充実させる。しかしその結果、地方に関する報道内容は発表ものや当たり障りのないものばかりになり、地方の出来事に対する掘り下げた報道はなくなってしまう。これでは地方の読者にとって新聞の意味がない。無理して購読料を払わなくても、地方自治体が配布する広報紙を読めば済むからだ。記事に魅力がなければ、新聞の部数減に拍車がかかるのは当然。自分の首を絞めることになる。そのことに気付かない連中が新聞社を経営しているということであり、もはや言論人としての矜持も失っているのだろう。
大手メディアは、民主党政権の誕生前後から、「地方主権」の重要性を繰り返し報じてきた。地方重視の考え方だが、実際に大手新聞社が目指しているのは全く逆の形。地方の時代を叫びながら東京一極集中を進めるのなら、ますます新聞離れを助長するだろう。
新聞は文化である。無くしてはならないものだ。新聞の未来を考えるなら、安易な記事共有などすべきではない。
【頭山 隆】
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