<福岡建設協力会はピーク6割減>
福岡都市圏の建設業界の歴史を回顧してみよう。「昔話をしてみても仕方がない」という意見もある。しかし、それには異論を挟みたい。まず、昭和50年(1975年)以降のこと。そこには激変時代に生き残るための英知が隠されていることを再発見できるはずだ。また、新たな覚悟の必要性を認識することになる。
1975年以降、福岡の建設業界を領導していたのは福岡建設協会であった。この名門ですらピーク会員総数57社から22社に激減している。関係者の証言によると「20社割れは時間の問題」となる。この冷酷な事実に向かい合えば、さらに業者が淘汰されることを身振りしながら承認することになるだろう。
昭和50年代(1975~1985年)までは福岡建設協力会を中心にまわっていた。要は松本組(この会社の政治力)に忠誠心を尽くし、役所の工事を順番にもらって経営が成り立つ麗らかな時代が続いていた(=請負をちゃんと果たしていたら飯が食えていた時代)。都市福岡の市場の懐深さは建築専門の業者の存在を許していた。福岡だけが異例である(九州各地区の業者は建築と土木を併用している)。松本英一国会議員との親睦の深さで福岡建設協力会での序列が決定されていたと言っても過言ではない。
<新興勢力の台頭>
1975年3月、博多まで新幹線が延びた。これを境にして、都市福岡が本格的な発展を開始した。民間の建設需要が拡大されていったのである。このブームを背景に建設協力会とは関係ないところで若手の業者の台頭が始まった。
照栄建設を筆頭に大高建設、前宮建設、トミソー建設、南建設である。照栄建設(昭和47年設立)以外は1975年以降に本格稼働している。これらの企業に共通しているのは「民間活力」であった。福岡建設協力会の序列とは関係ないところで飛躍していった。
この5社を除く先輩格の個性ある建設業者の存在も見逃せない。建設業者はもともと政権与党の自民党にくっついてきた。福岡政治風土は異色である。松本組が君臨してきた福岡都市圏では、建設業界主流は万年野党の社会党を応援してきた。だから、政治的な反発をする勢力の存在は不思議ではない。その一党の旗頭は末永工務店の社長であった(勿論、主義主張の対立ばかりでなく役所工事の思惑・打算も複雑に絡んで勢力分布図が形成されていた)。末永工務店に組するグループは浮羽工務店、北洋建設、有沢建設などなどであった。
振り返ってみると1980年までは建設協力会を中心に業界の勢力図は一定していたようだ。長閑な時代の実例をよく指摘してきた。例えば善工務店(本社・中央区)の場合は松本英一参議員の威光の傘を巧妙に利用して官公庁工事を仕切っていた。官需の収益物件を選り好みできる立場にあった。お陰で経常利益は対毎期売り上げ率10%以上をキープ。勿論、無借金経営であった。政治力を如何なく発揮すれば極楽の環境に君臨できていたのだ。
だが、時代は激変。官需は減り儲からない。「民間活力」が問われる。善工務店は全力で方向転換に挑んだのだが―成功には至らなかった。厳しい受注合戦には適応できなかったのである。昔の請負業者は分限者(金持ち)の仕事をこなして対価を得てきた。昨今は皮肉な巡り合わせとなっている。分限者・善工務店が貧乏人・成り上がり不動産業者の工事を受ける度に財産を差しだしてきた。我が身を削ってデペロッパーを肥やしてきたのである。並みの企業ならとっくの昔に万歳をしていた。善工務店がついこの前まで建設請負業の面子を貫くことができたのは、驚異的なことなのである。福岡建設協力会の淘汰されたメンバーの大半は善工務店のように「民間活力への挑戦」に失敗していているのだ。
*記事へのご意見はこちら
※記事へのご意見はこちら