<大地殻変動の牽引車東建設>
昭和60年代になって建設業界の序列が大きく変化した。大地殻変動が進行したのだ。業界トップの松本組は、完工高60~80億規模で推移していた。前回、紹介していた新興勢力・照栄建設、大高建設、前宮建設、トミソー建設等は急成長を持続して老舗福岡建設協力会を凌駕する勢いになっていった。この4社に共通するのは、「民間活力の有効活用戦略」が巧妙であったことだ。照栄建設は「賃貸住宅の特化」、大高建設は「物流建設への絞り込み」、前宮建設は「色もの物件(ホテル・パチンコ)に専念」、トミソーは「不動産開発」と、それぞれに個性戦略を打ち出していた。市場が拡大されていた故に、各企業の多様化戦略が功を奏していたのだ(今の時期では羨ましい遠い希望の話になってしまったが)。
一方、建設協力会からも潜在的な化け物と見られていた東建設の社長・東正信氏のキャラクターが発揮できる時代の詰まりが到来していたのである。平成バブルに突入する当時でも、「脱請負い」が叫ばれていた。東氏は、福岡の同業者に先駆けて「創注」という概念をビジネスモデルとして導入した。要は、不動産を企画開発の段階から段取りしてお施主から「仕事を貰う」のでなく、「仕事を取る」という流れを組み立てたのである。不動産企画を練り上げる時点で、単価の主導権を握ろうとする魂胆は長年の思考の賜だ。
アパート一棟売りの上成建設という会社があった。ここは徹底したローコスト建築で、できるだけ家主に利回りアップに注力してきた。社長であった井上氏は、やはり「単価を値切られる請負業者の悲哀」脱皮を研究していた。その成果がアパート一棟売り(鉄筋・鉄骨物件)のパイオニアの地位を築いた。だが、第一次バブルの破裂時期には乗り越えられなかった。建設業界では異端児と言えば異端児の存在であった。
<初代100億円企業の名誉を東建設が浴する>
1988年(昭和63年)に、東建設が福岡地区の建設業者として初めて100億円企業の仲間入りを果たした。それまで福岡地区に100億円企業がいなかったのが不思議なくらいあった(「全国大手が一定のシェアを握っていたから地元の業者で100億円クラスが出現するのは無理だった」とか「お互いに飯が食えていたから、規模拡大を追及するハングリーな経営者がいなかった」と勝手な解釈は罷り通っていた)。
東正信氏の潜在能力を爆発させた時代の余勢は、1990年に突入しても続いた。売上100億円に驚いたのだが、さらに200億、300億円と急伸させていったのである。「100億円企業ではないと何かしら肩身の狭い」憂鬱感に苛まれる時代雰囲気が蔓延するようになった。「ヨッシャー、100億円になって世間の認知を受けよう」と、どの企業も躍進のきっかけを掴もうと躍起になっていたのだ。ある意味で東建設は、のんびりしていた業界に活性化をもたらす貢献をしたと評価できる。
20年前、高松組は時代の流れには呼応できずに手を拱いていた。東建設の後に続いたのが高木工務店である。但し同社の場合には請負業に徹してマンション受注に主力を置いていた。完工高を伸ばして100億円の仲間入りを果たした。加えること新興勢力からは恐ろしい会社が巨獣に化けた。不動産開発から仕事を『創注』していたトミソー建設である。驚くことなかれ!! 1,000億円に迫る借金を調達したのだ。時代はヒーローを生みだす。ヒーロー本人も、『時代の寵児』という謙虚な気持ちを抱けば良いのだが――。
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