<バブル弾けても破局まで10年淘汰が続く>
時代の寵児は浮力で本来の実力の4倍、5倍の売上規模を達成させる。2期、3期と風船が膨張していくと、「これが俺の実力」と錯覚する。建設協力会においては東建設、高木工務店に対して、高松組の格式は上に見られていた。2社が100億を一瞬にして超えていけば、高松組の心中は穏やかでなかっただろう。
「いつかは破裂するは」と念じていた。祈念が見事に実って破裂する事態になる(この徹底的教訓を学んでいたのであれば「第二期バブルに犯されることはなかったのに」と他人事ながら悔やまれる)。
福岡において、第一次バブルが弾けたのは1991年9月(平成2年)である。鉄骨加工の共和の倒産がその象徴である。1年後の9月、11月の東亞住研、興栄ホームなど負債300億円クラスの大型倒産があったのだが、建設業者の破綻は延びた。その背景には、景気回復のために住宅着工件数を増大させる諸政策が打たれた。だから建設業者の受注は伸長した。死に体ながら表面は延命している印象を与えていた。10年間、真綿で水を湿らせながら首を絞められていった感じである。
東建設は1997年10月(平成9年)に倒産した。高木工務店も2002年8月(平成14年)に民事再生法を申請したのである。繰り返すが、東建設は請負を超える『創注』に果敢に挑戦し、また高木工務店は請負に徹して両極端の道を歩んだ2社ともアウトになった。さらに福岡建設協力会の仲間では、マンション受注に特化して100億近くにまで規模拡大した橋詰工務店、大祥建設がある。この両社も時代の荒波に揉まれて散ってしまった。福岡の老舗と目されていた業者の屍が、累々と横たわっていったのである。
<新興勢力も明暗>
新興企業も第一次バブルが弾けると、その対応に明暗が分れた。一時、1,000億円近く膨れた借入を抱えて四苦八苦していたトミソー建設は、「いつ消滅したか不明」という静かな死を迎えた。同社の伊藤社長には再三、「早期の店仕舞い」を勧告したことがある。伊藤氏は人間不信に陥った時期もあった。企業整理の段階では仏さんのような顔になっていた。「この穏やかな人物が1,000億円の借金を抱えて不動産企画をやっていたのか」と驚くこともしばしばであった。しかし、「これまた歴史の産物の一駒であった」と思えば、納得もできた。人は時代に規定されて生かされるのである。
他の新興勢力では、色もの物件で名を馳せた前宮建設も知らないうちに廃業した。この会社の前田社長による一般債権者に迷惑をかけない清算は、「見事、あっぱれ!!」と称賛できる稀有なケースである。九州各地区で不動産開発を仕掛けていて倒産した南建設も記憶に残る倒産であった。新興勢力は後発ゆえに身軽であった。だから不動産企画に携わって急成長させたのだが、これまた時代の変遷に翻弄されたのである。第一次バブルの後処理に追われている中で、この後遺症を抱えていない勢力は新たな波動を掴んで躍進の芽を開かせ始めていた。
*記事へのご意見はこちら
※記事へのご意見はこちら