<バブル高揚エリアは局部で激震破裂>
福岡において第1次バブルが弾けたのが1991年9月であることは前回述べたとおり。バブルの終戦処理に奔走して淘汰された企業は、生殺し状態で苦しみを味わった。たとえば、高木工務店は、長いもので10年以上の期間を要した。その背景には内需拡大のカンフル政策の存在があった。だが傷ついた企業には自力の再生の道を掴む契機にはならなかった。潰れるしか選択がなかったのだ。
ところが、ここから歴史の面白さが始まる。景気てこ入れ策として住宅需要の喚起がなされている間に、またまた新興勢力が台頭し始めたのである。次号で触れるが、アパマンショップホールディングス、ディックスクロキ、シノケンなどが新興勢力の筆頭銘柄だ。
今回、負債1,000億円以上の大型倒産企業の大半は、92年以降に設立された会社であった。福岡においても活躍・急背長した企業の大半は92年から95年の間に設立されている。沈むのもあれば浮かび上がる企業もあるのだ。栄枯盛衰は世の常である。
そしてこの新興勢力もまた2008年9月のリーマンショック以降、倒産の憂き目にあったり、経営ピンチで四苦八苦したりしている。第2次バブルの崩壊は激烈だ。市場が瓦解状態だから一瞬にして破綻する。国・行政もまた住宅振興を景気浮揚政策の柱にしていない。底知れない泥沼が続いてきた。ここでようやく光明が見えてきたところだ。
第1次バブル期は福岡でも坪1,000万円以上のエリアがアメバー状態に拡散していた(東京でも然り)。第2次バブル期においては福岡で坪1,000万円を超えたところは僅かである。西通りが今回は話題になったが、地域が局部的であった(東京でも同じ傾向にある)。
第1次バブルで、若者たちをフィーバーさせた「親不孝通り」は坪1,000万ストリートでもあったのだが、今回はピークで300万の値にも達しなかった。仮に次の高揚時代が到来しても、福岡で値上がりするゾーンは極々、限定されたところだけになるだろう。そして、今回の第2次バブルは高揚期が短かったのが特色であった。
<不動産金融テックニックの興亡>
第2次バブルのもうひとつの特徴は、不動産資金調達が多様化されたことである。金融工学という触れ込みで小賢しい調達テクニックが我が物顔で闊歩した。不動産リートという商品も上場した。この新時代の仕組みを活用して体質改善に成功した実例もある。福岡地所が端的な例だ。不動産リートのスキームを活用して借金の圧縮を図った。財務の健全化に漕ぎつけたことでバブル時期の負の遺産とオサラバした(『福岡リート』を上場させた)。
この逆の例がディックスクロキである。個人・企業オーナーに一棟売りのアパートを売るのがこの会社のシンプルなビジネスモデルであった。上場すると売上拡大が迫られる。不動産ファンドに売り込むことによって規模拡大は可能になった。だから売上の急増は可能になったのだ。だが結局は、この金融テクニック、すなわち不動産ファンドに首を絞められて一敗地にまみれたのである。
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