1番が大好き、だけど健康が1番
エレガントジャパンの代表取締役で花峰クラブ会長の野元多津子氏は、昭和12年に壱岐の神官の娘として生まれた。後継ぎとして大事に育てられた彼女は、その後、いわゆる「お嬢さま」としての少女時代を送る。しかし負けん気だけは人一倍強かった。
「お嬢さんだった少女時代、障子に覚えたばかりの字を書いたことがありました。上手に書けたのでほめてもらおうとお手伝いさんに見せると、逆に怒られました。障子を汚したのだから当然といえば当然ですが、このときの悔しい思いはその後も頭から離れませんでした」と話す同氏。「一番が大好き」という彼女の負けん気は、このときからすでに培われていたのかもしれない。
奥座敷でお雛様のように大事に育てられた彼女も、当然のように少女時代を経てやがて成人する。結婚後、夫と共に営んでいた建材会社は事実上彼女が切り盛りした。松下電工の代理店として信頼も篤く、事業は順調で経営状態もすこぶる良好だった。
ところが、成功の陰で過度の疲労が彼女のからだを蝕んでいた。彼女は突然倒れる。原因は不明、入退院を繰り返す日々がおよそ3年間もつづいた。
ある調査会社の社長が留守中にやってきて「ここの会社はいつ来ても社長がおらん。これだけ社長が外で働いている会社だからさぞ繁盛していることだろう」といった。事実は違っていた。
彼女は事業に本腰を入れることもできず、やがて離婚することに。これ以上の事業継続は困難と判断し、1983年に事業を清算することにした。清算を惜しむ声も多かったが、土地や家を売却して取引先との清算を済ませると建材の仕事から一切手を引いた。
「おかあさん、また変なおじさんが来てる」その間、娘にはたいへんな苦労をかけた。
失ったものは大きかったが、長い闘病生活を送るなかで何かが変わっていた。自分のからだは医者任せでなく、自ら守らなくてはならないという自戒。健康には水が大きな影響をおよぼしているという新たな発見。そして何よりも、生きたいという強烈な願望。
「体調が回復すれば健康にかかわる仕事をしよう!」そこにはもはや使命感に似た気持の昂りがあった。
退院後、健康機器の販売代理業務に就いた。出資金が必要なかったのが魅力だった。しかし、1カ月で1千万円の業績を上げなくては正規代理店としては認めてもらえない。30万円の機器なので33人に売る必要がある。すぐにリストを作成すると、片っぱしから営業に飛び回った。
「買ってください」ではない。「お願いだから助けて!」とがむしゃらに訪ねまわった。その結果、販売代理店「エレガントジャパン」を設立することができた。
「生きていくにはお金が要る。2人の子どもを食べさせるために、とにかく必死でした」と野元社長は述懐する。
ある日、製造元が倒産、商品の供給が断たれる事態に直面した。ならばと、従来のテーマだった「優れた水」を用いた化粧品の開発に乗り出す。このうわさを聞いて駆けつけた東京の化粧品製造会社と手を組み、事業は軌道に乗ったかに見えた。ところが紹介を受けて提携した人物によって会社は食い物にされ、再び家や土地を手放す羽目になる。
「いいかげんに手を引いたら?」という兄弟の反対を押し切り、建材会社時代から応援してくれた銀行や友人の協力を得て、博多区のマンションの一室で細々と健康茶『日本山人蔘』の研究開発と販売に取り組んだ。
「なぜそこまでして・・・・・・?」という質問に彼女は答える。「みんなに健康を見つめ直してほしいから。そのために私たちの商品を1人でも多くの人に知ってもらわなければ」
その後も、「ヒュウガトウキ研究連合会」の顧問で敬天会東和病院副院長の水野修一医学博士との二人蔘脚で研究をつづけ、1人でも多くの会員に商品を提供しつづけている。そして一昨年の11月には、念願の花峰クラブを発足、自然や環境に関心を持つ人々と団欒して、本来の健康、本当の幸せについて語り合い、互いに癒しあうことの大切さを感じ、内外に訴えている。
5月29日には、水野博士を講師に迎え、福岡国際会議場で花峰クラブ講演会を開催する。 演題は「遅老延寿のススメ」。環境や食が健康にとっていかに大切か、病気や老化のメカニズムに息づく因果応報という普遍的法則にもとづき、末永く幸せな暮らしをするための秘策を授ける。
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