幼き日にアレルギー疾患で苦しんだ体験から医師となり、地域医療の現場で4万人の患者と向き合った男がいる。男は、一人の患者を救いたい一心から画期的な方法を見出し、世界的な評価を得た後、医療の現場から政治の世界へ挑戦するという。秋野公造、42歳。
その実像に迫った。
<アレルギー疾患に苦しんだ幼年期>
── まずは自己紹介からお願いします。
秋野 私は昭和42年7月11日生まれの42歳です。妻も私と同じ医師です。うちには6歳、4歳、2歳の子どもがいて、上から女の子、男の子、女の子。綺麗に七五三に生まれて参りました(笑い)。
私自身は、貿易商の父と母との間に生まれ、小さい頃からアトピー性皮膚炎と気管支喘息に苦しみました。今でこそ、乗り越えることができましたが、アトピーに苦しんだ頃は今でも忘れられません。母から掻いてはいけないと言われ、いったんは止めるのですが、気がついたらまた掻いている。だから、私の肘の内側、膝の裏側はいつも赤々と腫れ上がっている状態でした。身体検査やプールがいやでしたね。「おでき、おでき」とからかわれることが多い子ども時代だったんです。
喘息の発作にも苦しみました。発作は、主に明け方に起きるものですから、夜眠るのが怖かった感覚を鮮明に覚えています。「死にたい」と呟いたこともあったそうです。こうした体験が、医師を志すきっかけになったのです。
<母と平和>
秋野 私の母は、長崎の原爆で実兄を亡くし、満洲からの引き揚げ途中に妹二人を亡くすという辛い体験をしていました。そうしたことから平和への思いが人一倍強い母に育てられましたので、私の中には常に「平和」というものがあり続けました。そのせいか、中学生の時は国連職員みたいなものになりたいと思っていました。しかし、やはり子どもの頃の病苦を思うと、それを何とかしたい。救わなきゃだめじゃないかと思うようになり、医師を志すようになったのです。私の親戚が皆長崎だったという関係で、長崎大学を受験し合格しましたが、原爆でなくなった長崎の叔父は、くしくも長崎大学の医学部を目指していたのです。そう考えると、私の原点は、やはり幼年期のアレルギー疾患と、母から教えられた平和への思いなんです。
【秋野公造氏プロフィール】
平成4年に長崎大学医学部を卒業し、同大学院へ。 アメリカ留学を経て、平成18年より厚生労働省に出向。疾病対策課、血液対策課の課長補佐を歴任。平成21年からは東京空港検疫所支所長に就任。同年厚生労働省退職。
医学博士・長崎大学客員教授。公明党青年局次長・国際局次長。
受賞歴:社団法人日本内分泌学会 若手研究奨励賞/ヨーロッパ組織再建学会 若手研究奨励賞/日本創傷治癒学会 研究奨励賞/アメリカ・日本創傷治癒学会ジョイント学会 第1回優秀演題
著書:「健康ニッポンを造る!」(潮出版社刊)
趣味・特技:スキューバーダイビング、サイクリング
好きな食べ物:果物
好きな映画:レッドクリフ
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