<頭取交代劇の裏側>
山口銀行は04年5月21日の決算取締会で、田中耕三前頭取(現相談役)から2年前にバトンタッチを受けた田原頭取に替わって、福田浩一頭取の昇格人事を発表した。突然の頭取交代劇の真相をめぐって新聞各紙をはじめとしたマスコミで大々的に取り上げられた。頭取交代劇を報じた『選択』の論調は以下の通り。
<クーデターの足場固め>
まず、クーデター当日(2005年5月21日)の登場人物は(表1~3)の通り。事情に詳しい地元経済人が、当時の人間模様を語ってくれた。それを整理すると次のようになる。
守旧派8名のうち、従業員組合の委員長・副委員長と書記長の7名が、もう1人の対案賛同者の福田氏を頭取にする構図となっている。つまり、決算役員会における役員選任人事は、平取締役であろうが代表取締役であろうが全員1票であり、それを知ったうえで、過半数を制する8名に対案を提出させる力を持っていた人物こそ田中相談役であったという。同氏は日立製作所から組合対策のため山口銀行に入行しており、いわば御用組合の生みの親でもある。組合出身の7名を役員に引き上げ、今回のクーデターに賛同させた田中相談役の人身掌握術は見事としか言いようがない。
一方、田原頭取の推薦によって役員に昇格した野坂文雄氏は取締役福岡支店長であったが、05年3月頃から活発化したクーデターへの参加を複数の組合出身役員から打診され、8人目の対案賛同者となったとも言われている。心の葛藤もあったのだろうか、はたまた良心の呵責に苛まれる日々が続いたのか。毎晩、夜の博多・中洲の街へ部下を連れて繰り出していたと聞かれる。
しかし、参加を決断してからは4人の書記長経験者(末廣、瀧本、加藤、野坂と続く)は結束し、クーデター成功の足場を確固たるものにした。その功績を買われて、野坂氏はもみじ銀行頭取に昇格し、山口FG専務も兼務する要職についている。
瀧本氏は45年、下関市の西端に位置する彦島で生まれた。彦島は宮本武蔵と佐々木小次郎のいわゆる「巌流島の闘い」が行なわれた対岸の島である。島内には戦後復興の足音とともに、三菱重工下関造船所、林兼造船、三井金属彦島精錬所、東洋高圧などの大手企業やその下請企業、旭洋造船、協立造船、太田造船など中小の造船会社も活況を呈していた。とくに朝鮮動乱の特需で三菱造船所には米軍の船舶が頻繁にドッグ入りし活気に溢れていた。最盛期には人口5万人を超え、昼間人口は7万人を超える工業地域であった。
<結ばれた縁の糸>
地元の江の浦小学校、彦島中学校、下関市の名門校である下関西高等学校を64年に卒業した瀧本氏だが、浜崎元取締役と高校時代まで一緒だった。浜崎氏の実家は菓子屋で、瀧本氏の家とは狭い道路を挟んで向かい合わせにあったという。一方、瀧本氏の父親は「料亭」と江の浦桜町(俗称)で「遊郭」(58年3月売春防止法施行により廃業)を経営していた。当時の桜町は三菱下関造船所に修理に入る船舶や米軍などの乗組員など多くの人々が歓楽街の桜町に繰り出し、夜の12時過ぎまで活況だった。客引きする女性の昼間の素顔と、いつまでも客のつかない夜の顔を見ると、子ども心に人生の悲哀を感じる一瞬でもあった。2人にとって多感な少年時代をともに生きた証だった。
その後、瀧本氏は慶応大学経済学部に現役で合格。68年に山口銀行岩国支店入行後、本店営業部の外為係に配属され、その後は従業員組合書記長を経て韓国の釜山支店に勤務。釜山支店長となり、大阪支店次長、審査部次長、新宿支店長、審査部長を経て取締役に就任した。
浜崎元取締役は本店営業部に入行し、瀧本氏と一緒の職場となった。大阪支店でも再度一緒になり、営業課長と次長の関係であった。当時、野坂文雄氏(現もみじ銀行頭取)も組合書記長を経て大阪支店の営業課長代理として赴任しており、大分支店長代理から課長に昇格した浜崎氏の部下となる。頭取交代劇のクーデター事件の当事者、瀧本次長、浜崎課長、野坂課長代理の3人が大阪支店にいたのも人生のイタズラかもしれない。
さらに、瀧本氏と69年に入行した西原克彦・現山口FG専務、70年に入行した浜崎元取締役とは下関西高の同窓であった。大学卒業後、再度山口銀行に入行して同じ職場で働くことになる。大阪支店時代の3人の関係、下関西高の同級生3人の関係、組合出身3人の関係の糸は、クーデター事件の守旧派と改革派に分かれた闘いの伏線だったのかもしれない。
【特別取材班】
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