「都市計画にビジョンを感じられない」と、現在の福岡の方々でよく耳にする。だが、かつてまだ福岡市が人口約20万人の街だった昭和初期に壮大な都市計画があったことを知る人は少ない。その当時は、現在と違い国の出先機関は熊本にあり、九州の中心と言えば熊本。福岡は九州で4番目の都市に過ぎなかった。
1943年(昭和18年)に博多商工会議所が製作した「二十年後ノ大福岡構想図」(福岡商工会議所保管)がそのビジョンを今に伝えている。この構想図には、博多湾全体を大きな港とした『港湾都市としての福岡』が描かれている。東区から西区までの海岸はすべて港湾施設が整備され、多数の船舶が行き交う。今の博多川、那珂川は久留米まで続く運河となっており、また、糸島半島を根元で切断した巨大な運河が博多港への行き来をスムーズにしている。
陸では、先ほどの二つの運河に挟まれたところに、「大福岡駅」があり、そこから久留米、糸島までを通した環状線が走る。同駅の線路は八方に伸び、市内の隅々まで鉄道が行き渡っている。太宰府のほうへ目をやれば、宝満山の頂上までロープウェイが通っているのに気付く。当時はまだ、区割りされていない頃だが、福岡市を7区に割っているのも特筆すべきことである。
もちろん、これは決して妄想などではない。20年の期間をかけて実現しようと考えられた都市計画だ。この地図には、まだ小さな街だった頃の博多商人の心意気があふれている。
残念ながら戦争でこの計画は頓挫したという。そして戦後、福岡市は引き上げ港に指定され、大陸から流入した人で人口が急増した。人が住み始めた後から道を通すといったインフラ整備で、現在の街並みを形成したと言えるだろう。
現代の福岡人にも、先人たちに負けないぐらいの「明確な方向性がある、夢にあふれた都市計画」が必要なのではないだろうか。
【山下 康太】
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