<理念の旗「圧倒的な情報発信をする」>
弊社の理念の旗印は「圧倒的な経済情報を発信して中小企業の経営の活性化に貢献すること」である。この旗印のもとに情報誌『IB』を通じて情報を発信してきた。16年に及ぶ。我が社の得意業種は建設・不動産業であった。筆者の前職先が同業界に強いことに影響を受けてスタートした。『IB』発刊当時は「アラーム」、「SIC」などの与信情報で顧客を開拓してきた。前職の遺産で飯が食えていたのである。そしてこのビジネスの強みは年間継続の更新率が90%以上あったことだ。いわばストックビジネスの色彩があった。
創業2年を過ぎるころから時代の変化(この頃はまだ激変という感じはしなかった。まだ長閑であったのだ)を読む努力をした(「変化・変革を恐れたら企業はいずれ淘汰される」という潜在的恐怖心はこの時点から弊社の組織体内に染まっていた)。まず時代の変化を読んで次の3点に絞った問題点をピックアップしてみた。(1)建設・不動産業だけに頼っていたらダメ。(2)与信情報に留まっていたら限界がある。(3)市民に啓発する情報の発信が必要。それらの議論を踏まえた認識を共有するようになった。
結果、辿りついた結論は(1)新しい業種の柱として流通・小売業を開拓。(2)「日経ビジネス九州版」のような品質・経済情報の多面性をもった『IB』の質的発展。(3)行政・政治情報の発信というものであった。一方では、KBCのラジオ番組を「ヤドカリ」利用で弊社の名前を浸透させる戦略を駆使した。『情報ブランドアップ』作戦である。朝の番組『経済データ最前線』は12年続けた。当初、1カ月20万円(1曜日)のコマーシャル代を負担してくれる会社は沢山、あった。当時は中小企業にとってまだ儲かれる環境が残っていたのだ。
<九州経済情報新聞の挫折>
事業を起こした4年目から「九州経済情報新聞」を発刊し始めた。週刊である。(1)「圧倒的な情報発信力は部数で決まる」という認識の下で数優先策を取って20万部配った。勿論、フリーペーパーである。(2)経済・経営情報に留まらず地方行政・政治のジャンルも取り入れた。一般市民にもデータ・マックスの情報発信を提供したかったからである。編集理念に「自覚・自立の市民の創出」を追加した。(3)加えること流通・小売業の切り込みが遅々と進まないので流通特集記事を入れ込んだ。
「IB」の誌面記事とは重複することなく編集企画は推し進められた。発刊から6カ月までは20万人に読んでもらえるという高揚感がありスタッフは苦労を苦労と感じなかった。ところが収入の頼みは広告頼みの弱点が襲ってきた。営業戦線も6カ月過ぎると無理が重なってくる。疲労が蓄積され担当者全体が暗くなってくる。週刊から月刊に切り替えて負担を軽減する努力はしたのだが...。
新聞事業を2年間続けたが、この事業からの撤退を決意した。この新聞の最大のネックは宅配のコストである。毎号、毎号の広告収入で埋めるのは非常にしんどいことであった。新聞事業の廃止を決断することに至った原因のひとつは「ネット発信の将来性への予感」であった。お陰さまではないが、1997から98年にかけて様々な方々が弊社に押し寄せてくれた。「ネット事業がいかに無限の可能性があるか」を説いてくれるのだ。ただで良い勉強させてもらった。次期の布石構想が煮詰まってきたのである。
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