6月29日に自己破産申請準備中であることが判明した、北九州市のゼネコンである大内田建設(株)。マンション受注で地場トップクラスのゼネコンへと成長を遂げていたが、大きな痛手を被ったこともある。この痛手を教訓化できず、今回の事態を招くこととなった。
<マンション受注で売上高100億突破>
大内田建設(株)は、1952年3月に個人創業、82年7月に法人化された地場ゼネコン。同社は、北九州市や福岡市の地場マンション業者から受注するマンション工事で業績を伸ばし、08年7月期には売上高を108億円にまで伸ばすなど、地場トップクラスのゼネコンへと成長を遂げた。
北九州地区の地場デベロッパーは福岡と違い、「地場大手が君臨している」と言われるほど供給戸数が群を抜いており、地場4~5社で市場の70~80%を占めるほど。そのため、北九州ではマンション受注に特化してトップクラスに成長しているゼネコンが、すでにあった。
これらのゼネコンに太刀打ちするためには、大幅なコストダウンが必要だが、簡単にはいかない。どこもギリギリでしのぎを削っているからだ。同社も地場有力のデベロッパーを受注先には持っていたが、それだけでは二番手、三番手が精一杯のところだった。
そこで同社が目をつけたのが、北九州以外に本社を置くデベロッパー。なかでも、とくに地場業者が群雄割拠している福岡に食指を伸ばしたのだ。それも、福岡で施工するのではなく、競争激しい福岡で用地取得が困難なら北九州地区でやってもらおうということだった。北九州地区の情報であれば、同社に一日の長がある。
これで、北九州や山口などで大型物件を次々と受注することに成功し、売上高は念願の100億円を超え、名実ともに北九州を代表するゼネコンへと成長を遂げた。しかし、そこには大きな落とし穴もあったのだ。
<販売不振により 代物弁済を余儀なくされる>
順調に受注を伸ばしていた同社が大きな影響を受けたのは、例のリーマン・ショックだった。05年、06年頃のデベロッパーは、土地案件がファンドなどとの競合で少なく、価格も高いため、各地区で案件を求めていた。同社はこの状況を生かして、北九州や山口、周辺地域での受注につなげていた。
ところが、リーマン・ショックによりマンション販売が一気に冷え込んだ。同社が受注していた物件も販売が進まず、苦戦していた。しかし、これまで受注していたデベロッパーなどは「売れないから建築資金が足りない」ということはなかったが、受注欲しさに売り込んだ先は「売れないと建築資金がない」ところだった。競争が激しい福岡地区は独立する業者も多いが、当然、資産背景は乏しい。販売力はあり、完売させれば問題はないのだが、売れ残ると大きく影響が出るところが多い。その結果が回収に苦慮することとなった。
そこで、一部物件を引き取ることとなった。しかし、物件が売れればよいが、本職であるデベロッパーがなかなか売り切れないのに、本業外のゼネコンで売れるはずもない。結局、同社のお荷物となる。ちなみに、この物件は現在も抱えたままとなっている。
これを教訓化して、「販売に関係なく決済できるデベロッパーは限られている。売上は落ちても有力デベロッパーに絞る」と、以降の同社の受注戦略は方向転換したと見られていた。ところが、今回のつまずきの大きな要因となった鹿児島の物件で、以前の教訓が活かされていなかったことが発覚。結局、この代金回収が思うように進まず、にっちもさっちもいかなくなった。
同社が苦しくなったのは、これだけではなかった。同社が受注確保のため、北九州市以外でも積極的に活動していた話は瞬く間に広がった。そこで、いろいろな儲け話などが転がり込んでくる。08年には、博多駅前1丁目の物件や黒崎駅前の物件などを購入した。これらは、ファンドが購入するという触れ込みだったが、リーマン・ショックでファンドバブルが弾けて転売ができなくなった。
こうした物件購入は借入金で賄っていたため、借入金が膨らみ、加えて建築代金を代物弁済などで引き取ったため、それをさらに借入金で補うという負のスパイラルに陥っていた。
【石崎 浩一郎】
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