<企業における人材育成の重要性>
私がこの業界(設備工事業)に入ったのは、学卒後の1968年の4月で、同年11月に弊社「豊盟工業株式会社」を設立いたしました。1975年5月に代表に就任して以来、この福岡で設備工事業を行なっています。
思い返せば会社設立時は、高度経済成長の右肩上がり。日本中が建設ラッシュに沸き、仕事が次から次へと入ってくるような時期でした。しかし私は、そのようななかで職人さんの関係や人材集めにたいへん苦労していました。周囲から見れば若造がつくった会社です。当然、知名度も無く信用も低かった。やっとのことで人材を確保したものの素人同然の職人さんだらけ。現場では、取引先からいつも怒られてばかりでした。
そうした厳しい状況に疲れ果て、「変な商売を始めたなあ」「やめようか?」「いやまだ止めるわけにはいかないよ」などと会社を設立した仲間3人でいつも話し合っていたほどでした。今になって思えば、この頃の苦い経験を通して人材を確保することの難しさを地肌で体験できたと思います。そして、その体験のなかから弊社の方針である「いい職人を社員として育てていくこと」ことが生み出されたのだと思います。
人材は「人財」とも例えられます。組織は人によって支えられていることを決して忘れてはいけません。人を育てることが企業を育てることにつながっていくと私たちは考えています。
<社員と同業者の力を借りて>
1992年に本社を現在地(福岡市城南区長尾)に移しました。本当は、拾六町に本社移設用の土地を確保していたのですが、取引先の強い薦めと、何より社員たちの通勤距離がだいぶ延びるというデメリットを感じて現在地を選択したわけです。当初は1、2階を本社。3階からワンルームマンションとして管理を行ない、新事業として確立する予定でしたが様々なトラブルが予想されたので取りやめました。
また、太陽光発電のパネル販売事業を手掛けましたが、既存の家屋に取り付けるには限界があることや、競争も激しいことから現在は積極的な営業活動は行なっていません。建築工事業の冷え込みが加速度的に増し、公共工事も大幅に減少しています。
このまま設備工事業を続けることには限界がある。そこで本管工事業への進出を決断しました。しかし、本管工事業についてはノウハウ、知識、設備のすべてが無いという"ゼロからの出発"です。かなり不安がありましたが、同業の方たちから様々なアドバイスや支援を頂きました。本当に感謝しています。そして、同じ管工事業とはいえ畑が違う環境にもかかわらず、社員もよくついて来てくれました。設立時、人材確保の厳しさを学び、人材育成と良好な人間関係の構築に努めてきましたが、今、人のつながりに有り難みを感じています。
福岡は他の地域から見ればまだ市場は残されていると感じます。しかしながら、苦境から脱却するためには、人と人のつながりが不可欠ではないでしょうか。
<プロフィール>
山崎 光義 (やまさき みつよし)
1945年1月、福岡市生まれ。ライオンズクラブに入会し人脈は広い。趣味はゴルフ、釣りと囲碁。
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