5.現場主義の原点
北九州市長を5期20年勤め、安定した都市基盤を築いた末吉興一氏。その卓越した首長術は深い経験に根付いた、現場からの発想の賜物である。
末吉氏は1934年(昭和9)兵庫県西宮市生まれ。しかし、本籍は旧小倉市。父親の仕事の関係で現北九州市、宗像市、大分県竹田市で育った。父親が事業に失敗し、口減らしのため寺に修行に出されもした。
東大に進学しても学費、生活費は延べ16人の家庭教師をして稼ぎ出した。建設省入省3年目には異例の人事で大分、松原・下筌ダム建設の用地課長として水没土地の買収補償対策に当たった。これらのダムは53年(昭和28年)の九州大水害に対応した「筑後川総合開発事業」の一環だが、住民への情報公開がうまく進まず、激しい反対運動が起きた。
こじれにこじれた状況のなかに、若き末吉氏は法律に詳しい専門家として送り込まれたのである。ダムサイトには反対派の砦「蜂の巣城」が作られ、国の役人や警官を寄せ付けない。水没補償だけでなく、市町村の行政需要の増嵩や、地域振興策の要求など、すべての地元の要求や要望が用地課長のところに集まる。
反対派は面会を拒絶するし、当時の電話事情では霞ヶ関への連絡に半日以上かかることもザラ。この八方塞りのなか、末吉氏は交渉相手に「合理的理由があれば考慮します」と誠実な対応を続けた。現地事務所の責任で補償の基準を作っての対応だから、中央の指示に合わなくなることもたびたび。「だから、戦時中、独断で軍事行動を取った関東軍になぞらえて『下筌関東軍』と呼ばれていました」と、末吉氏は語る。
普通の役人ならノイローゼになるような、事態を乗り越え、折衝の任に当たった。この若き時代の現場体験が、その後の現場主義の生き方に大きい影響を与えたようだ。末吉氏が取り組んだ修正補償基準はその後「松原・下筌方式」として新たな補償基準の中核にさえなったという。作家、松下竜一氏はこの闘争を「砦に拠る」にまとめたが「あのころの官僚は敵ながら迫力があった」と記している。
また、宮崎県への出向時代には観光課が予算を持つ土木部に設置されたのをつぶさに見てきた。労働組合の交渉窓口を前後10年にわたって経験。「難しい仕事ばかりをやらされたからナァー」(末吉氏)。
それでいて、常に明るく、前向きでリーダーシップを取る。市長在任中、市長室のイスに座ったのは就任と退任の記念写真撮影の時だけ。スタッフと一緒に大机に座り、壁や床は資料で埋まっている。「体を3つ欲しい、仕事する体、催しに出席する体、そして遊ぶ体が」が口癖だった。
著作「自治体経営を強くする『鳥の目』と『蟻の足』」で末吉氏はこう書いた。「長期的かつ高所からの街づくりを考え、蟻のように地道に実行することを信条にしてきたが、私の「鳥の目」の高さは実はスズメのそれではなかったか。ヒマラヤ越えの渡り鳥の目、つまり世界的視野に立って見る...」と。
彼の不退転の首長術は、今後も受け継がれていかなければならない。
<プロフィール>
末吉 興一 (すえよし こういち)
1987年から2007年までの5期20年間、北九州市長を務める。34年(昭和9)9月20日、兵庫県生まれ、75歳。58年、東京大学法学部卒業後、建設省に入省。60年、大分県松原・下筌ダム工事で用地課長。宮崎県企業局、自治省に出向、大臣官房地域政策課課長を経て85年、建設省国土庁土地局長から市長に立候補。市長退任後、外務省参与、内閣官房参与(地域再生担当)を務めた。現在は、(財)国際東アジア研究センター理事長(北九州市小倉北区)。著書に「自治体経営を強くする『鳥の目』と『蟻の足』」(出版社:財界研究所)がある。
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