1982年10月某日、西ドイツ・デュッセルドルフ空港――。着陸前の飛行機の窓の外には、緑豊かな街の風景が広がっていた。ドイツへの海外駐在勤務を命じられた大倉商事の若き商社マン・御厨幸弘は、まだ若干29歳だった。
学生時代に海外を放浪した時期もあったが、ビジネスマンとしては初の海外支店勤務。御厨は、期待と少しばかりの不安を胸に秘め、緊張の足取りで降り立った。
空港へ迎えに来た先輩社員に案内され、西ドイツ支店へ向かった。「さすがはドイツだ」。道中、行き交うタクシーがすべてメルセデス・ベンツであることに、御厨は息を飲んだ。
御厨の所属は重工業機械部。西ドイツ支店は過去、製鉄の最先端技術を日本へもたらす重要な役割を果たし、ヨーロッパ機械部門の中心的役割を持つ拠点となった。当時、同地への勤務は、"重工業機械部のエリートコース"と言われていた。したがって、若干29歳の海外赴任は、異例の抜擢だ。通常、各機械部門で派遣されるのは、経験豊富な30代半ばの者が通例。職場の同僚はおろか、本人さえも驚いた異動命令だった。
<中南米から西ドイツへ>
西ドイツ赴任の経緯を御厨は後に知った。それは次のようなものだった。
入社後、御厨が勤務したのは日本本社の中南米課だった。その配属は、南米コロンビア国・首都ボコタのハベリアナ大学でスペイン語を勉強した御厨の学歴に拠る。新人時代は貿易の基礎を徹底的に教育され、翻訳の仕事で忙殺された。
その頃、中南米課は、ブラジル国営製鉄所向けに各種大型製鉄機械設備を輸出していた。機械の輸出のみでなく、現地ブラジル企業とのコンソーシアム(共同)契約で工場自体の建設から稼働まで担うものだった。1件の契約金額も数百億円にのぼった。
プロジェクトの進行にあたっては、新日本製鉄や日立製作所から膨大な図面、資料を受領し、リオデネジャイロ支店やサンパウロ支店へ送付する。インターネットがない当時、スピードが要求される国際商取引においては、基本的に税関のチェックがないビジネスメールが使用されていた。これは会社の信用を担保とした制度である。
ある日、御厨は上司とともに税関に呼び出された。リオデネジャイロ支店の先輩社員が、御厨のために良かれと思って送った、ポルノ雑誌が見つかったのである。始末書を書かされ、こっぴどく叱られた。苦い思い出だ。
あわや会社の信用を失墜させかねない事件だったが、先輩の心遣いにも一理ある。新米社員ながらも御厨には休みがなかった。週末は週末で、中南米より来日した取引先の重役を、鎌倉・京都・奈良といった観光地へガイド。ほとんどの時間を接待に費やしていたからだ。
その後、御厨は、アメリカ・メキシコ湾と北海における、新規・海底油田ビジネスの立ち上げスタッフに選ばれた。両事業をはじめとする全世界の海底油田開発は、中南米課のビッグプロジェクトとして行なわれていた。御厨は、海底油田において現場状況の説明などで、視察に訪れる重役と直接会話する多くの機会に恵まれた。このことがドイツへの道を切り拓いた。
後でわかったことだが、御厨の西ドイツ勤務には、その若さと経験のなさから反対意見が多かった。それを彼の資質を見込んだ、担当課長、重役が押し通したというのだ。
もちろん当時の御厨は、その経緯を知らない。だが、デュッセルドルフへの旅路で、ずっと「修行に出されたようなものだ」と強く自覚していたという。
【文・構成:山下 康太】
<プロフィール>
御厨 幸弘 (みくりや ゆきひろ)
1952年9月4日佐賀県生まれ。71年、佐賀県立北高校卒。77年、東京経済大学経営学部を卒業し、大倉商事(株)へ入社。数々の海外駐在勤務を経験する。93年、同社を退社し、(株)岩田屋の子会社にあたるiDSトレーディング(株)へ入社。95年、同社を退社し、96年、(株)ミックコーポレーションを設立。現在に至る。
大倉財閥は、越後国新発田生まれの商人・大倉喜八郎が一代で築き、日本の十五大財閥のひとつ。大倉マンこと御厨氏が入社した大倉商事のルーツは、1873年に喜八郎が創立した貿易会社・大倉組商会となる。同社は74年に日本の企業としては初の海外支店をロンドンに開設した。財閥企業群としては、大成建設、ホテルオークラ、日本無線などがある。
喜八郎は、商人としてのこだわりから他の財閥とは違い、銀行業に手を染めることがなかったと言われている。一方、大倉商業学校(1900年創立、現・東京経済大学)、大阪大倉商業学校(1907年創立、現・関西大倉中学校・高等学校)といった教育事業を行なった。1998年8月の大倉商事破綻に際しては、「(喜八郎が)銀行を作らず、学校を作った」ことを遠因にあげる見方もある。しかしながら、「日本の人財」育成に目を向けた喜八郎の事業を、単なる企業経営と同列に扱ってはいけないだろう。
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