<事業継承に一心不乱も...>
(株)荒津工務店の代表取締役・荒津清計氏は、同窓会の宴会の席でいつも同級生から「おーい、荒津よ。お前は一体、いつまで働くとや。残りの人生を楽しまんでどうすっとや。仕事しながら死ぬなんて馬鹿たい。もの好きもほどほどにしろ」と言われ続けてきた。
73歳になる荒津社長は、腹のなかが煮えたぎっていた。「貴様らから忠告うけなくてもわかっとるわい。俺だって70歳までで引退する計画を持っとった。しかし、現実通りにいかなんとが経営タイ」と心のなかで叫んでいた。
たしかに荒津氏は、かなり前から事業継承を念頭に置いていたのである。子供は娘たちだけだ。婿に後を継がせることも検討していた。まずは義理の弟を後継者に指名した。関連会社で経営者としての訓練をさせたが、「どうもリーダーには不適格だ」と判断して辞めてもらった。「どうして上に立つ者としての気配りができないのか。社長になれる人生最大のチャンスなのにつかむ努力をしない。理解に苦しむ」と不思議でならなかった。
次に、娘婿を事業後継者に検討した。本人の性格は明るく人付き合いは良いのだが、だが人様を采配する器ではなさそうだ。「これでは会社も本人も可哀そう」と結論を下した。次に弟の息子(甥)を会社に迎えた。部長、常務と昇格させていった。関係者には「俺の跡継ぎだ」と公言してきた。技術者としては有能で現場は安心して任せられる。お客さん受けもまずまずだ。だがトップに就くことを考えると首をひねりたくなる。経営者としての訓練・教育の場にも出席させたが、合格点を与える気持になられなかった。
結局、甥も事業継承候補者から外した。荒津氏も悩んだ。「俺には人を育成する能がないのか」と自問自答を繰り返した。さすがの『楽天家』もやせ細った時期があった。「70歳で事業から足を洗う」というビジネス人生のプランの放棄を余儀なくさせられた。悩み抜いた末に、「これなら仕方がない。会社を買ってくれるところを探そう」と決断したのだ。そして弊社にもM&Aの相談がやってきた。
<荒津氏の全人格が会社をあらわす>
弊社も必死で対象先を探した。そのなかで木造アパート売りのデベロッパーが食指を伸ばしてきた。早速、面談をして話が進んだ。しかし、積み重なる議論のなかで「荒津氏が組織から外れたときに会社(荒津工務店)の価値はあるのか」という命題がクローズアップされてきた。「荒津氏が顧問で残っているときはまだ問題は発生しない。ところが荒津氏が身を引いた時には会社の存続は険しい」となる。つまり、会社の存在自身を荒津氏個人が体現しているのである。その後も、ここで必ず袋小路に陥った。幾多のお見合い(M&Aの面談)を行なったが、いずれも破談となったのだ。
いよいよ荒津氏は、困惑の境地をさまようしかなくなった。「これではジタバタしても仕方がない。体が元気な間、事業をやっていこう。体調が悪くなれば廃業に踏みきろう」と割り切った。というものの闘争心はなえていた。「おかしい。俺自身は生まれつき、人一倍運が良いはずだが、とうとう天に見放されてしまったか...」と、気も弱くなっていった。
*記事へのご意見はこちら
※記事へのご意見はこちら