<持って生まれた運はあれども、運を引き寄せる力は必要だ>
1956年、博多工業高校建築科を卒業した荒津清計氏は、民間の建築会社に入社した。
この年は不況であった。就職難の厄年であったのだ。京セラを創業した稲盛氏が、鹿児島大学工学部卒業後、中小企業にしか就職できなかったという有名な例もある。普通なら大手企業に入社できたはずだ。しかしながら、大企業に就職していれば稲盛氏が事業を起こすことはなかったかもしれない。人生はどう転ぶかわからない。
この年、46人の卒業生のうち建築関連の民間企業に入社したのはわずかに12人。朝鮮戦争の特需が切れたこともあり、建築業界は非常に厳しい状態にあったという。そのようなななか、荒津氏は地元の建設会社に勤めた。しかし、残念ながらこの企業が倒産するという不運に見舞われたかたちになった。その後、独立するまでの20年近く、いくつかの企業を渡り歩くというビジネス人生を過ごした。
62年から63年にかけて、建築業界にも回復の兆しが見え始める。建築業界で活躍する同期の何人かは、独立して会社を起こすまでにもなっていた。しかし、当時の荒津氏は独立起業せず、現状の維持を選択する。「今にして思えば、運が良かったのだと思う」(荒津氏)。結果、同期の独立組には倒産の憂き目にあった者も現れ始めた。
77年頃から、福岡の"都市力"は飛躍的に上昇する。荒津氏は、このタイミングを逃さずに独立の道を選択した。荒津氏が40歳を迎えた年の出来事である。50年代に卒業した同期のなかでは、いくぶん遅い時期での独立であった。荒津氏は、当時を振り返って語る。
「おかげで会社を起こしてから資金繰りに困ったことはなかった。お客からも仕事が途切れずに貰ってきた。取引銀行では素晴らしい支店長たちの邂逅(かいこう)があった。だから他人様よりも運に恵まれているという自信があった。ただし、激しく変化していく時代のなかで生き抜いていくには、持って生まれた運はあれども、運を引き寄せる力が必要だ。そのポイントは人とのめぐり合いであろう」。
<周囲は廃業もできない経営環境に転落した>
荒津氏の持つ人脈の強さは他人様に精一杯に尽くすことから培われたものだ。業界の世話事も率先して行なう。西福岡建設会(西建会)の会長も長く務めあげた。会のメンバーはどこも手堅い経営をなしてきたのだが、長期にわたる建設不況で企業体質を弱体させてきた。ついに仲間うちから倒産が続出し始めた。西建会の各企業とも世間並みの経営環境の悪化に苦慮していたのだ。
そのようななか荒津氏は、「われわれの仲間で事業継承に成功したと評価できるところは1社しかない。その会社は、オヤジの会長が自分の顧客を持っています。息子の社長も一級建築士の資格を持っているし自分独自の得意先を開拓しています。他の仲間たちの会社はどこも将来に関しては不安で一杯だと思う」と、周囲への気配りを忘れない。要は、どこも廃業したくとも廃業できないという厳しい現実が横たわっている。3年前までは大半の西建会の仲間たちはプラスの状態で廃業ができる企業力を有していた。この3年間で貯えを吐きだしてしまい、廃業したくとも廃業できないジレンマを抱えてしまったのだ。
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