尖閣諸島は日本人が入植し開発した日本固有の領土です。明治政府は尖閣諸島が清国の支配下にないことを10年の時間をかけ確認したうえで1895年、沖縄県に編入しました。日本国は国際法にのっとり、どこの国にも属していなかった尖閣諸島を自国の領土としたのです。その後、福岡県の古賀辰四郎氏が政府に土地の借用を申請したうえで、多額の資本を投下し、のべ数百人の労働者を送り込み、開拓事業を発展させたのです。戦後米国の施政下に置かれましたが、1972年の沖縄返還で日本に返されました。
中国が領有権を主張し始めたのは、国連アジア極東経済委員会が1968年に「付近の海底は石油資源埋蔵の可能性が強い」と発表してからです。1958年に北京の「地図出版社」が出版した「世界地図集」にも尖閣諸島は「尖閣群島」という名のもとに日本の領土として明記されています。
今年9月7日朝、違法操業を繰り返す中国漁船が尖閣諸島・久場島の北西約10キロで停船を命じられるも逃走。追尾してきた第11管区海上保安本部(那覇)の巡視船に二度にわたり衝突しました。前原外務大臣は外交防衛委員会での答弁で「今年は気候変動のため尖閣領域に魚が集まり、いい漁場になったので中国船が去年より増えた」のだと述べました。
これは楽観的にすぎるといえます。衝突時のビデオをみれば、漁船の船長が一般人でないことは一目瞭然。軍の意向を受けた特殊ミッションをもった行動です。日本の海上保安庁の巡視船に体当たりし、あえて捕まることによって、日中間に領土問題があることを世界にPRしようとしたに違いありません。今、中国は台湾、ロシアとも協調して尖閣諸島が中国の領土だと盛んにアピールしています。
そもそもは1978年、中国の140隻もの漁船が尖閣諸島に押しかけた半年後に来日した鄧小平が「(尖閣諸島問題で)われわれには知恵がない。賢明な次世代に解決を託そう」と棚上げ論を言ったときに日本政府が抗議しなかったことが大きな問題です。あたかも尖閣諸島に領土問題が存在するかのような印象を残してしまいました。中国が今ほど経済・軍事力をつけていなかった当時、きちんと解決策を詰めておくべきでした。政府が早い段階で漁民の避難所や灯台をつくっておけば、このような事態にはならなかったでしょう。
<プロフィール>
浜田 和幸(はまだ かずゆき)
参議院議員。国際未来科学研究所主宰。国際政治経済学者。東京外国語大学中国科卒。米ジョージ・ワシントン大学政治学博士。新日本製鉄、米戦略国際問題研究所、米議会調査局等を経て、現職。2010年7月、参議院議員選挙・鳥取選挙区で初当選を果たした。
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