過去には「アーサーブランド」を築き上げたアーサーホームの創業者として、福岡地場マンションデベロッパーの草分け的存在として一時代を築き上げた、アークエステート(株)代表取締役社長の山本博久氏。現在に至るまで、まさに自身の再生ドラマの渦中で茨の道を歩みながら、不動産仲介業者として、たしかな実績を残してきた。
<東峰住宅産業 財津氏との邂逅>
大阪生まれの山本氏は高校卒業後、住友生命に入社。不動産部門に配属され、そこで不動産開発およびビル建築の基礎を学んだ。その後、大阪本社の栄泉不動産に出向を命じられ、26歳にして営業部長として業績向上に貢献した。また福岡事務所長も兼任し、ここで福岡の地に縁を持った。住友生命本社に戻った山本氏は、実績を認められて35歳にして不動産課長となり、高卒社員としては異例の出世となった。
その後、山本氏は広島で1年間保険業務に携わったが、「自分の天職は不動産だ」という気持ちを捨てられず、退職を決意。37歳で独立への道を歩み始めた。当時、福岡には不動産のプロフェッショナルが見当たらず、この地で不動産仲介会社の大進興産(後のアークエステート)を起業した。人情に厚く排他的な印象もない九州、しかもそのなかで一番の成長性があった福岡は、山本氏にとって新天地としてはうってつけだったというわけだ。
その当時の高層集合住宅と言えば、公団が都心型アパートを建てたものがある程度。現在のようにマンションが乱立しているような状況ではなかった。営業活動のなかで縁を得たのが東峰住宅産業であり、同社創業者の故・財津幸重氏との邂逅があった。財津氏との付き合いを戒める者もあったが、山本氏は耳を貸さず、財津氏との信頼関係を深めていく。その頃、東峰住宅産業では戸建からマンションへ、と開発物件の拡大を検討中であった。そしてワンルームマンション開発を決めた財津氏に対し、山本氏は自身の経験を活かして開発の手伝いをした。
そうしたなか、西公園で計画されたファミリータイプのマンション開発も引き続き手伝った。購入希望者が殺到し、好評のうちに完売を迎えた。ちょうどその頃、山本氏のもとに驚愕の話が舞い込んできた。財津氏から直々に、東峰住宅産業の社長就任を請われたのだ。
信頼を得て、経営者として認められた山本氏。東峰住宅産業の社長となった後は、会長に退いた財津氏の長男・重美氏に対して、次なる後継者としてのあり方を厳しく教育した。新栄住宅、三和住建、日本ハウスなど多くのデベロッパー経営者を輩出し、「財津学校」と称された道筋を山本氏も踏襲。福岡地場デベロッパー業界の黎明期を支えた。
【大根田 康介】
COMPANY INFORMATION
アークエステート(株)
代 表:山本 博久
所在地:福岡市博多区博多駅前3-19-14
設 立:1950年8月
資本金:2,000万円
*記事へのご意見はこちら
※記事へのご意見はこちら