1年弱睡魔と戦いながら働いた結果、御厨は21歳のときに約100万円を手にした。そして、アエロフロート航空のソ連(モスクワ)経由、英国行きの安チケット(それでも当時、今と比較にならないほど高かった記憶がある)を購入。羽田空港からヨーロッパ、英国に向けて飛び立った。
出発前夜、友人たちが六本木のディスコを借り切って送別会を開いた。「50名以上来てくれたと思う。その内訳がなかなか面白い。学校の友人たち、学生運動の活動家、演劇関係など多種多彩なメンバー。皆好き勝手にやっていた」と、御厨は回顧する。
御厨が送別会で歌った曲は、井上陽水の「傘がない」。東京に上京するときの溢れるばかりの高揚感とは違い、遠い異国へ行く不安感、「果たして本当に生きて帰って来られるのか。現地での半年後の生活費はどうなるのだろうか」という気持ちを、陽水の曲に込めた。
モスクワ空港到着、御厨にとっては初めての異国だ。ひと言で言うなら恐かった。空港自体も薄暗く、背の高いガッチリした軍人が長い銃(おそらくカラシニコフ銃)を持って、立っている。周りを見渡しても人々に笑顔がない。安チケットで来ているため、ある程度モスクワで時間つぶし、ヨーロッパの航空会社の飛行機に乗り換えた。
夜遅くになって英国ロンドン着。バスで予約していたホテルへ。何か夢のなかにいるような感じで、現実味はなかった。翌日からは、すでに予約済みだったロンドン郊外の英国人家庭でのホームステイ。さらにロンドン中心部オックスフォードサーカスのスクールで英語の勉強がスタートした。
英国人ファミリーは大変親切で、私の隣の部屋は、勉強に来ていたイタリア人の大学生であった。大学生の若さで頭が多少禿げていたが、イタリア人らしく高級そうな皮バッグを持っていた。「QUEEN'S ENGLISHを勉強しに来た」という彼は「ヨーロッパ人にとって、英国で女王の英語を学ぶことは、格式ある英語を学ぶという意識である」と力説していた。
ホームステイ先の地区は緑が多く、まるで公園のなかに住んでいるようなところであった。当時、ブルース・リーが大人気で、公園に行くと子供たちが、ブルース・リーの戦いの構えをして、「アチャー」と奇声を発して御厨に向かってきたという。
彼らにとっては日本人も中国人の別もなく、東洋人は皆、ブルース・リーみたいに拳法ができて強いと思われていた。残念ながら、御厨はブルース・リーを知らなかったが、「これをきっかけにすれば、子供たちと仲良くなれ、勉強も教えてもらえる」と思い、ブルース・リーの映画を見始めたという。
覚えた構えを、その都度公園で披露すると大変喜び、口コミでどんどん子供たちの数が増え始めた。そのころには常時20名ほどの数となっていた。ガッチャマンのバイトでアクション演技は得意だった御厨だが、それがまさか外国で役に立つとは思わなかった。約30分間演技するかわりに英語を教えてくれるとの約束。子供たちは小学校・中学校で習っている英語の教科書を持ち寄り、御厨に英語を教えた。
当初、集まっていた子供たちは10歳以下がほとんど。御厨がもっと子供たちを喜ばしたいと思い、始めたのがブルース・リーのシンボルであるヌンチャクだ。練習して、ヌンチャクを披露し始めると、(決して上手くはなかったが・・・)ついには大人たちも来るようになった。年頃の女の子たちも来るようになり、なかにはビックリするほどの美少女たちも集まり、もう気分はルンルンであった。
「日本人のブルース・リーがいる」と近所で評判になった。まちを歩くと色々な人に声をかけられ、近所の英国人家庭にティー・タイムに招待されるようになった。まさに「芸は身を助ける」であったという。
【文・構成:山下 康太】
<プロフィール>
御厨 幸弘 (みくりや ゆきひろ)
1952年9月4日佐賀県生まれ。71年、佐賀県立佐賀北高校卒。77年、東京経済大学経営学部を卒業し、大倉商事(株)へ入社。数々の海外駐在勤務を経験する。93年、同社を退社し、(株)岩田屋の子会社にあたるiDSトレーディング(株)へ入社。95年、同社を退社し、96年、(株)ミックコーポレーションを設立。現在に至る。
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