<有名ホールのバーテンダーに>
英国の子供たちから、もうひとつ学ぶことがあった。御厨は、学校での先生の英語は聞き取れていたが、当初、子供たちの話す英語が聞き取れなかった。その理由は、彼らが「コックニー」というロンドン特有の方言を用いていたこと。子供たちとの勉強を通じて、この「コックニー」に接したことは、今後、ロンドンの飲食店などでアルバイトしていくなかで非常に役に立った。
ホームステイ生活も数カ月経つと、所持金が残り少なくなってきた。そこで御厨は、サッカーチーム"アーセナル"の本拠地近くに、小さなアパートを借り、昼は学校、夜はアルバイトという生活を始めた。アラブ人が経営するショップでペルシャじゅうたん売り、レストランでの皿洗いなどを経験した。
ある日、御厨は街で、長身で上品な感じの英国青年(頭は坊主)に、日本語で声をかけられた。「××でないか」と警戒したが、彼はピアニストで、禅を勉強している青年で、日本へすでに数回、勉強と修行のために訪日していた。その青年の名はマルコム・レジャー、後に御厨と親友になった。「恥ずかしながら、私は仏教や禅、日本文化というものをよく理解しておらず、彼に教わった」と語る御厨。そのとき、日本を出る前にもっと勉強しておけば良かったと反省したという。
マルコムは、クラシックファンの間では有名な、テームズ川沿いにあるロイヤルフェスティバルホールで働いていた。そして、彼の特別な計らいによりホール内のバーでバーテンダー(御厨曰く、おそらくは日本人初のケース)の職を御厨に紹介してくれた。しかし、そこは英国のみならず世界中のクラシックファンや演劇のファンが集まる社交場である。一流の演奏家や役者を含む大勢の来場者が来る場所だった。御厨は当初、かなりの不安を覚えたという。
ただし、働くにあたって非常に厳しい訓練があった。御厨は何度も辞めようかと思ったが、その都度マルコムが励ましてくれた。そしていよいよ、バーテンダーとしてのアルバイトが始まった。アルバイトは、午後5時から11時まで。5時からの食事は、スタッフ用レストランで無料食べ放題。大食いの御厨にとっては最高の待遇だ。また、そのレストランで作る食事は、その日の演奏家たちの分も兼ねており、それはそれは立派なものだった。実質的に労働時間は3時間ほどしかなかった。
<ヨーロッパから北米大陸へ>
開演前、インターバルタイム、公演後と、御厨がサーブするのは、カクテルやウイスキーなどのアルコールを中心に時折、軽食。公演前のサーブは、客とゆっくり話しながらサーブできるが、インターバル時はドッと流れてくるので、神経を集中し失礼がないように働くことが大変だった。ただし、苦労の反面、良いことも多かった。「最高に良いアルバイトだった。当時の為替レートは、1ポンドが約800円であったが、日々のチップだけで10ポンドから15ポンド、つまりチップだけで毎日1万円近く稼ぐことができた」と、御厨は目を細める。
さらに御厨は、どうやったらチップを多く稼ぐことができるかを考えた。そして、客の多くは女性をエスコートしてくる男性が多いことに気づいた。御厨は男性の前で、連れの女性の服、ネックレスなどの飾り物を意識的に褒めた。これが功を奏し、バーテンダー仲間のなかでは、トップクラスのチップを稼ぐことができたという。
また、このアルバイトのおかげで金まわりが良くなり、貯金もできた。さらに、友人たちとアルバイト後に深夜まで遊び歩いた。また、1週間ほど休みが取れると鉄道、ヒッチハイクなどをしながらヨーロッパを旅してまわった。
そうこうしているうちに、予定していたヨーロッパ滞在は1年が経とうとしていた。しかし、帰国を決断することはなかった。もっと世界を見たかったのである。まず目指したのは北米大陸。英国中部の軍の飛行場より、退役軍用機と思われる乗り心地最悪、しかし料金は格安のチャーター便でニューヨークを目指した。ほとんどの乗客は、御厨と同じで汚いジーパンにロングヘアーの世界中の若者たちであった。皆、考えることは一緒である。
【文・構成:山下 康太】
<プロフィール>
御厨 幸弘 (みくりや ゆきひろ)
1952年9月4日佐賀県生まれ。71年、佐賀県立佐賀北高校卒。77年、東京経済大学経営学部を卒業し、大倉商事(株)へ入社。数々の海外駐在勤務を経験する。93年、同社を退社し、(株)岩田屋の子会社にあたるiDSトレーディング(株)へ入社。95年、同社を退社し、96年、(株)ミックコーポレーションを設立。現在に至る。
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