アメリカに着いた御厨は、ニューヨークの摩天楼にも驚いたが、最初に泊まったホテルの造りにも驚いた。安ホテルということもあるだろうが、窓の外は頑丈な鉄格子でおおわれており、まるで牢屋。旅仲間より、ニューヨークは十分注意しろと言われていたが、納得のいくアドバイスだった。
その後、アメリカを北進し、シカゴさらにはカナダを旅した。それでも帰国する気はさらさらなかった。今度は先進国ではない国々を訪問したくなったのである。照準に合わせたのは南米大陸であった。
御厨にとって南米とは、行ったこともないのに親近感を覚えるところだった。おじがブラジルのサンパウロに居たということもある。そのおじは九州工業大学卒業後、日本特殊陶業株式会社(NGK)に入社し、ブラジルへ渡った。そのまま移住し、当時、NGKブラジルの副所長を務めていた。
親戚一同から破天荒と言われていたおじと、南米へ行けば会えるだろうと御厨は考えた。(実際、南米滞在中に会うことができ、夜中まで踊り、楽しく飲み歩いた)。
ブラジルへは、フロリダ・マイアミ経由で南下していくのだが、その途中、「ここは本当にアメリカか」と耳を疑うぐらい、あちこちでスペイン語が飛び交っている状況にまず驚いた。南米出身の移民の多さを実感しながら、ラテンアメリカに近づいていることに高揚感を覚えた。一方で、古代文明であるアステカ、マヤも体感できることへの期待もあった。南下後、御厨はコロンビアの首都ボゴタ市を拠点とした。
今まで南米の気候は熱帯性で暑いと思っていたが、ボゴタは海抜2,500mに位置していることもあり、朝夕は寒いぐらいである。そのうえ、酸素濃度が低い。体が慣れるまで、それなりの時間がかかった。滞在中、ソ連のクラシック・バレエ団が公園のため、ボゴタに来ていたが団員の多くが体調不良となり、公演中止になったこともあった。
スペイン語の基礎は南米に入る前に身に付けていた、それなりに自身を持っていたがなかなか通用しない。英語なんて一流ホテルでなければ役に立たない。たまにどこから来たのかと聞かれて「ハポン(日本)」と答えても、「バスで来たのか?」と、聞かれるような具合であった。また、ボゴタでの生活が長くなるにつれ、貧富の差が激しく、治安も悪く、教育も満足に受けられない人がたくさんいることに気づいた。
【文・構成:山下 康太】
<プロフィール>
御厨 幸弘 (みくりや ゆきひろ)
1952年9月4日佐賀県生まれ。71年、佐賀県立佐賀北高校卒。77年、東京経済大学経営学部を卒業し、大倉商事(株)へ入社。数々の海外駐在勤務を経験する。93年、同社を退社し、(株)岩田屋の子会社にあたるiDSトレーディング(株)へ入社。95年、同社を退社し、96年、(株)ミックコーポレーションを設立。現在に至る。
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