そして、平成20年6月の証券化前提の融資期限が迫ってきた。
私は、取締役会でこの問題を提起した。これまで銀行にはあくまでも証券化でいくという公式見解のみを伝えていたが、とにかく、この1カ月でこの土地を証券化できるという状況ではないので、早めに銀行へ状況を伝えて、融資延長などの策を講じなければならない。討議の結果、代表取締役会長となった黒田より、東京支社長から代表取締役に転じていた岩倉社長と私で、延長交渉をすることの了承を得た。そして、ひとまず5月中旬に、岩倉社長が都銀の支店を訪問し、状況報告と延長交渉を行なうこととなった。私としては、当該物件の融資条件が非常によかったため条件を改悪する余地が大きかったことと、岩倉社長と同都銀の間が比較的懇意であったことに、希望をつないでいた。
ところがである。
私としては、都銀との折衝結果が気がかりで翌朝岩倉社長が出張から戻り出社するなり、社長室に出向いた。
「札幌物件の融資延長の件はいかがでしたか」
「いや、販売状況の報告しかしなかった。ファンドからの購入希望は来ているから」
岩倉社長という人は、決断の早さ、割り切りのよさといった長所はあるが、なんとなくのんびりとした感じをぬぐえなかった。
「6月に期限が来る話で、1カ月前にきちんとお願いをしないのでは誠意がないととられます。そういうことであれば、次回私も同行しますので、とにかく当社の要望を相手先に出しましょう」と私は言い、5月末に岩倉社長と同行で都銀を訪問することとし、すぐにアポイントを入れてしまった。
当然のことながら、東京の都銀支店との札幌土地に関する折衝は、地銀との大分ホテルに関する折衝以上に厳しいものであった。都銀支店を訪問すると支店長以下、計4名の行員が出てくる。当時の当社クラスの場合、たいてい支店の副支店長クラスが対応してくるが、この支店にも非常に切れ者の副支店長がいた。
〔登場者名はすべて仮称〕
(つづく)
※記事へのご意見はこちら