<旧家族構成の最後>
筆者は昭和22年生まれの『団塊の世代の中核』に位置する。その指摘は表面的過ぎる。「昭和22年生まれは『戦前の家族制の名残り』と『新世代のそれのスタート』と拮抗する転換点にあった」という指摘のほうが的確である。その後の家族制の変遷をみれば納得がいくはずだ。具体的に言うと「22年生まれのなかで兄弟の末っ子に当たる家族は『旧家族制』に属する」ということだ。
筆者は6人兄弟の一番下になる(長男は戦前、死亡)。父は明治33年生まれ(西暦1900年)、母は明治36年生まれだ。要は『戦前は産めよ、増やせよ』という国策も手伝って兄弟5人は少ないほう。6、7人兄弟の家族は珍しくなかった。だから22年生まれで末子の該当者の大半は兄弟の数が5人以上いた。
一方で、長男・長女にあたる「22年生まれ」の者たちの兄弟は多くて3人、大抵が2人である。これらの親たちは戦争末期に若くして徴兵されて無事、帰還してきた。そこで「さー、新しい時代が来たぞ」と家庭を持ち『ニューライフスタイル』の担い手になったのだ。その後の「核家族」の原型である。言葉を代えると『昭和22生まれ』が最初の子となった両親が、戦後の『日本のマイホームの創始者である』ということだ。
<誰でもがサラリーマンに憧れた>
生き残った兄弟5人は上からふたりが姉、下が男3人だ。長女と一番下の末っ子の筆者との間には20歳の開きがある。上の姉ふたりは高校卒で旦那はサラリーマン(銀行マンと大手民間企業)であった。男兄弟は大学に進学し、兄たちは一流企業に就職した(筆者は志あって平凡な道を選択しなかった)。当時、地方ではできるだけ学業を修めて大企業のサラリーマンになることが憧れの選択コースであった。
戦前の旧家族の親たちはあまり学歴がない。このハンディを克服させるためにわが子には自分が犠牲になってでも無理して進学させた。心労がたたり、若いうちに命を絶つことが多かった。母との別れは昭和46年、筆者が23歳のことだ。67歳で永眠した。父は昭和54年に78歳で逝った。死ぬまで好きな酒も飲むことができていたからその当時の78歳はまず『長生き』の部類であったであろう。
田舎のお寺は浄土宗専修寺である。現在の住職は27代目とか。お寺の歴史は織田信長時代の1570年代にさかのぼるそうだ。現在の住職は親の代から2代目ということだが、筆者のすぐ上の兄と同級生である。この住職の兄弟も7人いて我々、兄弟の4名と同級生になるのである。こういう実例は別に不思議なことではない。兄弟の多い旧家族制では日常茶飯事なことである。だから付き合いも濃厚な関係になる。
旧家族制の兄弟たちにはまだ先祖供養を大切にしている。筆者でも年に2回、両親の墓参りは欠かしていない。裏を返すと専修寺にとって「この檀家制が生きている間は経営が安泰」ということである。現住職のふたりの息子も坊主修業を修め後継者として鍛錬に励んでいる。7年前の平成16年に兄弟が集まって母の33回忌を行なった。
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