3月11日14時46分マグニチュード9の地震が日本列島を襲った。震源域が全長500キロにおよぶものでこれは世界史のなかでも4番目に記録される大惨事だった。
私はその日、東京から8時12分発のはやぶさ1号に乗り、10時32分に盛岡に到着してその足でサウナへ向かい、ひと汗かいてから自宅に戻っていた。いつもなら東京でもう一仕事してから昼頃の新幹線で帰宅するのだが、その日に限って結果的にはとてもラッキーな選択をしていた。下手をすれば新幹線の中にそのまま閉じ込められて、身動きさえ出来ないでいるところだった。
東日本大震災で交通機関は完全にストップしてしまったため、盛岡へ帰るどころか生きた心地さえしていなかっただろう。後で知ったことだが、私の友人のなかには2時間半もかけて自宅まで歩いて帰った人や、盛岡から東京まで16時間かけて帰った人もいた。
そんなことになるとも知らず、旅の疲れをサウナで癒した後、自宅のソファーでのんびりとくつろいでいた。その時だ!突然家が大揺れに揺れ家具が倒れそうになった。なかに入っている食器類が壊れてしまうのは仕方がないとあきらめた程の揺れ方だった。ところが、実際に壊れたものは何もなかった。その後、余震は何度も続いたが、結果的には何ひとつ損傷もなかったのでほっとした気分になり、引き続きテレビを眺めていた。すると突然テレビが映らなくなった。ブレーカーが落ちたのかと思って見に行ったが、ブレーカーは落ちていなかった。この時点になっても、まだ大惨事が起きていることも停電になっていることさえも知らなかった。つまり、盛岡市内にある我が家では、地震があった後でも何事もなかったかのように平穏そのものだった。
しばらくすると、安否を気遣うメールや電話が殺到した。ビックリしたのはこちらのほうである。何も情報がなかったから、ことの重大さにまったく気づいていなかった。
あまりにメールが来るので、普段聞くことのないラジオを持ち出してきてスイッチを入れた。すると、興奮したような声でアナウンサーが陸前高田市が全滅したとか、南三陸町では1万人以上の人が消息不明になっているなどと叫んでいた。
つい何週間か前に行ってきたばかりの町の名前が次々に出てきて、その町が悲惨な目に遭っていることを報道しているのだ。にわかには信じられないことばかりだった。
報道を通じて知ったことは、地震という災害が招いた津波という二次災害の怖さだ。10メートルの高さまで登ってから襲ってきた波は、堤防を越えて怒涛のごとく町のなかへ流れ込んだ。その勢いは、時速50キロで走ってくる車に激突するほどの衝撃だそうだ。家屋は勿論のこと、ビルを根本から折ってしまうほどの勢いだ。海岸から1キロ近くも離れていた列車さえも押し流してしまっていた。
【髙塚猛事務所 髙塚 猛】
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