【インタビュー】港湾の歴史を刻んできた男が語る博多港の過去と未来像
近代博多港の歴史は戦前から始まった。福岡市議会議員として長く市政に関わってきた津田たかし氏は、まさに戦後の博多港の歴史を刻んできた男のひとりだ。今年市議を引退する津田氏が最後に、博多港の過去と未来像を語る。
<港湾埋立を振り返って>
博多港は、戦前の1936年に現在の中央ふ頭が竣工し、戦後の74年に博多ふ頭、76年に東浜ふ頭が竣工しました。79年に私が福岡市議会議員になったとき、シーサイドももちの計画とそれに対する反対運動などが起こっていました。百道校区と西新校区が私の選挙区で、支援者の方もかなりいましたが、当時はかなり激しい反対運動、署名活動が行なわれていました。説明会に行っても「何をしに来たのか」という雰囲気でした。
私は埋立賛成討論もしましたし、住民請求がきたときは反対討論もしました。今考えてみたら、1期生でこれだけ大事なことをしていたとは信じられません。現在なら、ある程度の期数を経た人がするようなことですから。
私の場合、昔は現在のベイサイドプレイスのところに魚市場があり、そこで育ちました。そのため、私にとって港湾は身近な存在でしたが、当時は港湾に興味を持たれている市民の方は極端な話、全体の5%くらいだったでしょう。港というのは暗いイメージで、一般市民が立ち寄るようなところではありませんでしたから。今では50~60%の人が関わりを持っていると聞きますから、大きく変わりました。
神戸港が日本で最初にコンテナターミナルをつくり、貨物の主力がコンテナに移行し始めました。そうしたなか、博多でも港湾の埋立が始まり、箱崎にコンテナターミナルをつくろうという話になりましたが、地元の港運業界は「なぜそのようなものをつくる必要があるのか」と反対しました。なぜなら、コンテナが来て機械で貨物を積み下ろしするようになると、自分たちの仕事が無くなるからです。
<集約化が必要だった>
現在の博多のコンテナ取扱量は75万TEUくらいだと思いますが、今まで順調に増えてきたと思います。しかし、釜山は1,500万TEUあります。以前は韓国内のいろいろな生産貨物を運んでいましたが、今では中国大陸との積み替え港になっているようですね。ただ、4~5年前に議員連中で釜山新港へ行きましたが、スケールが博多とはまったく違いました。
あちらは国策で釜山に集約化していますが、日本の場合、これまで政治家が地元に港湾と空港を1カ所ずつつくろうとしていました。私は少なくとも、関東、関西、中部そして九州に、国が主導で国策として集約化しなければならなかったのではないかと思います。アメリカでもロサンゼルスやロングビーチに集約されていますし、オランダもロッテルダムくらいで、世界各国おおむね1港か2港くらいが普通なのです。日本はあまりにも分散化しているように思います。
博多港にコンテナターミナルができたころ、港湾局は釜山に追いつき、追い越せという時代で、私自身もそれを信じていましたが、今考えたら恥ずかしい話ですよね。釜山の規模は神戸のずっと下だったのですが、伸び方が半端ではなく、今ではコンテナ取扱量だけでも10倍近く差が開いていると思います。やはり、国策による一極集中の強みでしょう。
今後の博多港は、国内航路だけでなく国外航路でもRORO船(※1)やフィーダー船(※2)などを使って上海や釜山などをしっかり利用し、博多の地の利を活かしてほしいですね。
【文・構成:大根田 康介】
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<プロフィール>
津田 隆士(つだ たかし)
1944年、福岡市生まれ。高取中学校、博多工業高校、九州産業大学を経て、(株)福岡魚市場に入社。79年福岡市議会議員に初当選して以来、連続8期当選。2011年の統一地方選挙には出馬せず、長男の津田信太郎氏にバトンタッチし引退する。
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